お返事をいただいて、先生と僕のもう一つの共通点を知ることとなった。
土屋公幸先生の訃報が届いたのは2018年6月6日の午前中、カモシカの頭骨の洗浄作業中のことだった。土屋先生と僕には共通点がある。1つは小哺乳類の研究者として知られることで、モグラ類に関して積極的に調査をしたことである。2つ目は染色体の形態変異に関する研究を志向していた点で、1970年代から80年代に、日本の哺乳類の染色体数とその形態を明らかにしたということである。僕は博士論文をモグラ類の染色体の研究で執筆したので、土屋先生がまとめられていた日本産モグラ類の染色体に関する報告はその下地となるものだった。そして最後の共通点は、標本を大変よく作ったということである。土屋先生は『国立科学博物館』の今泉吉典先生の下で動物学を学ばれたので、当時の標本の充実に貢献をされている。収蔵庫には、土屋先生が作製された美しい仮剥製標本が、多数残されている。
僕にとっては憧れの先達だった。初めてお会いしたのは学生時代、長野県須坂市でモグラの調査を実施したときだった。土屋先生は近くで行われていた学会を途中で抜け出されて、モグラの採集に付き合ってくださった。『国立科学博物館』に就職したときは、当時の新宿分館まで来られて、お祝いをしていただいたのがうれしかった。
僕は大学の先輩方が標本を作っているのを見様見真似で学んできたので、標本の師匠という人はいない。学生時代に作製していた仮剥製は、後肢の裏側を上に向けた状態だった。ある日、土屋先生から「足の裏は下側にしたほうがいいのだよ。英国にあるマルコム・プレイフェア・アンダーソンの標本も皆そのようになっている」という指摘を受けて、以来、そうしている。足の指が湾曲せずに乾燥するので、標本を利用する際に便がいい。またあるときは、上野の日本館に展示されたアカネズミの剥製が「出来が悪い」ということで、差し替え用の剥製を送ってくださった。土屋先生は本剥製も作れる方だったので、展示標本は土屋先生の作である。研究者で、本剥製まで手がける人は国内にはほとんどいない。
土屋先生がご病気と知ってから、どうしたらよいのか、連絡を取ることができなかった。しばらくして回復されたような話を伺ったときに、「標本バカ」の連載のコピーをすべてファイルして手紙に同封した。標本が大好きな先生のことだから、楽しく読んでいただけるだろうと思ったのだ。
それから後にお返事をいただいて、先生と僕のもう一つの共通点を知ることとなった。「標本バカ」の第4話で、ブライアン・ホジソンという英国の博物学者と僕の誕生日が同じであることを書いたことに反応されてのことと思われる。「私は1941年2月1日生まれです」と書かれていたのだ。僕の生年月日は1973年2月1日である。
土屋先生が遺された標本や台帳は、僕の研究室に移管された。標本は1000点に及ぶ膨大なものである。「川田くん、あとはよろしく」というお考えがあっただろうか。1年少々かけて整理してきたが、それが最近ようやく完了した。与えられた宿題を終えたような気持ちになっている。