2009年、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、日本人として初めて優勝したピアニストの辻井伸行さんの演奏には、いつも心を揺さぶられる。演奏技術が優れたピアニストならばたくさんいる。辻井さんの演奏には独特のオーラが漂っていて、技術だけには収まらない何かが含まれていると感じるのだ。
辻井さんは生まれつきの小眼球症で、先天的な全盲である。生後8か月でショパンの『英雄ポロネーズ』を聴いた時、手足をバタバタさせて喜んでいる辻井さんの特別な反応にお母さんは気がついた。それ以降、音楽に対する辻井さんの反応はどんどん豊かになっていく。ある日、お母さんが『ジングルベル』を口ずさんでいると、ふすまを隔てた隣の部屋からそのメロディの伴奏が耳に入ってきた。なんと、まだ2歳3か月の辻井さんが小さなおもちゃのピアノで弾いていたのだ。
「楽譜を目で読めないので、耳で聴いて自分の頭で考える力を磨きながら演奏の実力をつけていった」とお母さんから伺ったことがある。視覚にハンディがある分、耳の力、頭の中で想像する能力が相当に鍛えられたに違いない。幼少期から深めてきた辻井さんと音楽のつながりが、演奏からあふれるように伝わってくる。これらすべての要素が、心の振動の源になっている。
創造性が土俵である小説や音楽の世界でも、人を感動させる一定の法則があることに着眼し、人工知能がその法則に沿って作品をつくる。そんな試みが増え、人工的なヒットが量産されてもおかしくはない。人工知能が、カタルシス、ホロニック構成、ストーリーなどを巧みに操り、効率的に感動を誘導する。
そんな中、「そもそも感動とは何か」ということについて、人間は深く考えさせられることになりそうだ。脳科学的には、五感および運動感覚を介した外部からの情報が大脳皮質からの抑制を飛び越え、すぐに大脳周辺部の報酬系を刺激してドーパミンなどが放出される現象が感動である。前頭前野の高次脳機能の命の原始記憶、深層心理から人間本来の記憶が突然噴出する現象でもあることを踏まえると、感動は表層的な情報処理にとどまらない。
人間の身体を構成する元素のもとをたどれば宇宙や自然につながり、DNAによって生命体の一員として存在しているのが人間である。ゆえに、宇宙や自然、生命体に対して理屈を超えた感動を覚えるのだとすれば、人工的なものによって促される感動とはいくばくのものかと思うのである。人工知能がつくり出した芸術作品や、超人的に高度な技術を持ったロボットスポーツ選手の試合を観て仮に感動できたとしても、それは背後にいる人間込みでであろう。
それらを開発した人間を背後になくして、人工的な創作物に対してのみ感動することは難しい。僕はそう考える。なぜなら、人間の感動のメカニズムは、宇宙や自然、生命体から完全に外れたところに存在することが不自然だからだ。
辻井さんの演奏も、まさしくピアノの音色だけを聴いているのではない。いわば、辻井さんその人を聴いているのだ。