山菜の価格
そうやって苦労して採ってきた山菜を前にして、あるとき、ふと「この山菜の価格はどうやって決まっているんだろう」と疑問に思いました。
単刀直入に答えをいってしまえば、それは「モノとお金のバランスで決まる」ということになります。お金の量に対してモノが多ければ価格は安くなり、お金の量に対してモノが少なければ価格は高くなる、というわけです。山菜が多く採れれば安値に、少なければ高値になるということは、肌感覚でも理解できるのではないでしょうか。
では、その逆はどうでしょうか。お金の価値も、実は増えたり減ったりするものであると知ったとき、「こんなに当たり前のことなのに、考えたこともなかった」と自分で驚きました。モノの価格を物価といいますが、モノが足りないとき物価が上がり「インフレ」という状態になります。お金が足りないときには物価が下がり「デフレ」という状態になります。
当たり前すぎるほど当たり前のことなのですが、お金のあり方に関心をもって、Webや本などを調べてみても、この初歩的なことにたどり着くのに僕はかなり苦労をしました。「お前が馬鹿なだけだろ」という声が聞こえてきそうですが、それは置いておくとして、経済学というものはさまざまな学派があり、どの学派に所属しているかで意見が異なるので、同じ事柄なのに人によって逆のことをいっていたり、その人がどのような立場から意見を述べているのかを理解するまでは、とても混乱しました。利害関係でポジショントークをする人もいるように思え、僕の場合、それが経済学の理解の大きな妨げになっていたと感じます。
僕は1975年生まれで、10代から40代という、人生の中でも大切な時期のほとんどを不景気の下で過ごしました。いわゆる「失われた30年」というやつです。その原因にはさまざまな説がありますが、そのひとつに「デフレを脱却できなかったから」というものがあります。お金が足りないときには物価が下がり「デフレ」になるのですから、じゃあ、お金が市場に出回るようにすればいいじゃないかと思うところです。しかし日本経済史を振り返ってみると、そう簡単には事は進まないようです(この辺りのことには簡単には足を踏み入れることができないので、今回は素通りします)。
ここ数年で、市場にお金が出回るということを実感したのはコロナ禍で行われたGoToキャンペーンでのことでした。僕の妻の実家は、月山の麓の西川町志津という集落で『つたや』という温泉旅館を経営しています。新型コロナの感染者が増えてくると、客足がピタリと止まりましたが、少しして感染者の増加が収まってきた2020年7月からGoToキャンペーンが行われました。止まっていた客足は回復し、自治体からも飲食店などで使えるクーポンが発行されたため、僕が運営している店舗『十三時』でも、普段はなかなか動かない高額商品が売れるなどして、「これがお金が市場に出回り、交換が盛んになるということか」と驚いたのでした。とはいえ、その売り上げより、コロナ禍全体のダメージのほうがはるかに大きいのが実際のところなのです。
文明と自然
そうした自然の冷酷さから人間を守っているものが文明です。自分たちの活動範囲に文明を張り巡らせることで、人間は自分たちを脅かす、獣や災害や病気などを排除してきました。とくに近代以降の発達した文明によって、人間と自然の乖離はより大きくなり、その恩恵を享受する反面、自然の豊かさを実感することが困難になりつつあるトレードオフ状態であると僕は考えています。
善し悪しは別としても、自分たちを取り囲んでいる社会の中でお金の意味はますます大きくなってきています。山伏や山の文化はかつての日本社会の中で、お金や流通と深く関わりを持ってきました。拡散し、物事のつながりを希薄にする性質のあるお金と山伏は似ている存在でした。そのあり方をこれから辿り、繙いてみたいと思います。そのことでかつての社会から自分たちの暮らしに至る、見えにくかった側面を浮かび上がらせることができればと、考えています。
さかもと・だいざぶろう●山を拠点に執筆や創作を行う。「山形ビエンナーレ」「瀬戸内国際芸術祭」「リボーンアートフェス」等に参加する。山形県の西川町でショップ『十三時』を運営。著書に『山伏と僕』、『山の神々』等がある。
記事は雑誌ソトコト2022年5月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。