心の「大文字」で地名が記された地図
僕は普段からGoogleマップで地図を見たり、ルートを探したりしています。当然のように、「東京」とか「大阪」といった地名は地図上に大きな字で記されていますが、中山間地域の地名は地図を拡大しないと見えてきません。そんな地図のなかで僕らは生きています。だけど、自分の頭のなかで、自分にとっての心の「大文字」の地名が記された地図を持ってもいいんじゃないかなと思うのです。日本地図のなかに大文字で書かれている地名は、基本的には人口規模が大きいとか、産業的に重要であるとか、交通の要衝であるみたいなところから文字の大きさが決まっているとするなら、そういう地図が日本の地域の紹介になってしまっていいのかと。たとえば、山登りが好きな人の地図では、長野県の松本市は限りなく大文字で記されることになります。松本はいろいろな山に向かって行ける拠点だからです。山梨県の甲府市も大文字でしょう。南アルプスを登るための玄関口ですから。僕は東北の山々が好きなので、山形県の鶴岡市などがその玄関口ですから、鶴岡という地名は頭のなかの地図に大文字で記されています。
そう考えると、地域をPRしていくときに自分のまちを大文字化してくれる人は誰なのか知っておくことも大事になってきそうです。たとえば、盆踊りが好きな人たちは、おそらく岐阜県の郡上八幡、長良川や吉田川、白鳥といった地名が大文字化するでしょう。地域のなかで特性を持っている場所というのは、ある特定の趣味を持っている人たちからすると、とてもエキゾチックな場所として頭のなかの地図に大きな文字で刻まれているのです。Googleマップの10万分の1の縮尺では地図上に出てこない地名かもしれませんが、いろいろな目的で地域を探している人たちがいるはずですから、僕たちが想像する以上に、広く浅くよりは深く鋭く、その場所を伝える方法もあるのではないかなと感じています。
僕の頭のなかの地図には、文学というテーマで地名が大文字で表記される場所がいくつかあります。一つは、山形県の小松町で、現在の川西町の中心部に当たります。旧・小松町は、井上ひさしさんの出生地です。山形県の南側に位置する置賜地域にある場所で、かつてイザベラ・バードが「実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である」と称賛した美しい盆地です。
この前、仕事の打ち合わせがあって川西町に近いエリアを訪れたので立ち寄りました。「川西町浴浴センターまどか」という温浴施設があって、帰りの新幹線に乗る前に入れるなと思ってタオルを購入したんですが、浴場に入った瞬間、先に入っていた地元の先輩世代の方々が僕をじっと見るんです。こうした施設ではよくあることだと思いますが、普段は地元の人しか来ない場所に他所の人や新参者が入ってきたら、地元の皆さんも気になりますよね。よそ者が扉を開けて酒場に足を踏み入れた瞬間、屈強な地元の人たちがそいつを睨みつけるシーンが西部劇でよくありますが、あれと同じ感覚。もちろん悪気はなくて、「どこから来たんだろう?」と思って、話しかけてみようかどうしようか、その雰囲気が僕は好きです。
川西町に行く理由の一つは、「遅筆堂文庫」という僕が勝手に師匠と慕っている井上ひさしさんが寄贈された約22万点の蔵書や資料を所蔵する図書館があるからです。井上さんの文章が好きでたまらない僕にとって、「遅筆堂文庫」は夢のような施設です。今夏はお米が足りないことが大きなニュースになりましたが、「コメの話」といえば、井上さんのエッセイがあります。その本を書くためにお米のことをたくさん勉強されたんだろうなと思うほど、農業やお米に関する蔵書が並び、開くと鉛筆で線が引かれていて、お米に対する井上さんの熱のようなものが伝わってきます。だから、小松は僕の地図では大文字で記されているのです。
登山のところで大文字だった鶴岡市は文学でも大文字です。「鶴岡市立藤沢周平記念館」があり、そこに行くのは僕にとって大きな喜びです。藤沢周平さんが好きな理由は、主人公が石高もそれほど大きくない下級武士であることが多く、つつましい暮らしをしています。そんな市井の人たちの悲喜交々の生活のなかで、あるとき、光り輝く瞬間が訪れる。そんな物語が好きで、読みながら「これはまさにローカルヒーローじゃないか」って思ったこともあります。地域のなかで地域を盛り上げる人とか、地域のなかで変化を起こす人っていうのは、必ずしも御三家のような人たちじゃなくてもいいわけです。この前、和歌山へ行って、和歌山ラーメンを食べながら、紀州藩ってやっぱりお金があったんだなと思いましたが、それに対して海坂藩(それは藤沢さんがつくった架空の藩で庄内藩がモデルといわれていますが)は政治・財政的に不安定な藩として描かれていますが、藤沢さんはその庄内・鶴岡の武士のことをすごく研究して書かれていて、まちを巡れば、文章に登場する櫛引とか、いくつかの庄内の地名が僕の地図のなかで大文字になっていきます。
藤沢さんの『春秋山伏記』という山伏を主人公にした小説も好きです。市井の下級武士の暮らしを描いた時代物とは違うタイプの小説で、山の民の暮らしを山伏を主人公にして描いた、民俗学者の宮本常一さんの世界にも通じる物語です。僕は山の暮らしに興味があって、山伏の坂本大三郎さんと話したときに、「春秋山伏記が好きなんです」と言ったら、坂本さんは笑顔をほころばせてくれて、僕も嬉しくなった覚えがあります。
川西町を訪れた日が雨だったら釣りもできないので、「遅筆堂文庫」に赴いて、日がな一日井上さんの蔵書を読みます。それが僕にとってはかけがえのないインプットの時間になります。岡谷にある「武井武雄の世界 イルフ童画館」もそうですが、そういう知る人ぞ知る場所が日本各地にたくさんあります。情報の流れていく速さとか情報が露出する時間があまりにも膨大になりすぎた現代では、つかみ取れない地域の魅力がたくさんあることも確かで、地域をPRする際はそれも前提に置いておいた方がいいでしょうね。オンラインの情報やトップニュースだけが社会や地域を表しているわけではないことを、若い人たちや地域の魅力を知りたがっているみんなに伝え続けないといけないと思います。
「ソトコトペンクラブ」のこと
地域をPRしていきたい、そういう気持ちを持っている人は日本各地に世代を超えて大勢いて、『ソトコト』の取材を通じて常々感じているところでした。今年に入って少し考えるところがあってスタートしたのが「ソトコトペンクラブ」という新しい仕組みです。
なぜ「ソトコトペンクラブ」をつくろうと思ったかというと、僕が雑誌文化のなかで生きてきたとき、たとえば『ビックリハウス』とか『ワンダーランド』といったサブカル雑誌だったり、『ロッキング・オン』のような音楽雑誌や釣り雑誌だったり、ページの後半に行けば行くほど「参加する市民感」というか、「アマチュアの魅力」と言ってもいいと思うんですけど、プロがつくるものが前半から中盤にかけてあって、後半に行くと読者が投稿してくれた情報が掲載されるというのが雑誌づくりの定番でした。大学4年生のときに『アウトドア』という雑誌の編集部でアルバイトをしていたのですが、僕の担当は最後のプレゼントページと読者からのお便りコーナーでした。「最近キャンプ場に行って、クマが近くにいてびっくりしました」といった出来事が書いてあるんですが、そういうのを僕が先輩と選んで編集していました。それはAIによる生成で生まれてくる文章ではない、ものすごくリアルで、住んでいる人たちやそれを趣味としている人たちの感情が言葉によく表れていて楽しく読んでいました。当事者だからとか、自分事だからってこともありますが、こうした声をもっとメディアに載せていきたいと考えたのです。
思い返せば、雑誌の釣り記事などは投稿に頼る部分が実に多かったんです。なぜなら、リアルタイムの話を載せるために取材チームを組んで青森や奈良へ行ったりすると、行って帰ってきてそれを編集している間に、そこにいる魚はすでに、ほかのどこかに移動してる場合が多いんです(笑)。上流に行ってしまったとか。だから、一刻を争うリアルタイムな情報は、現地の人たちに書いてもらう方が、スピード感が出る。釣りは情報に左右される遊びなので、なるべく早くて旬な情報を載せるのが決まりだったりします。そのなかで『釣りマップ』という各地の釣具屋さんからの情報でつくられていた本があって、そういったものには編集者やライターというわけではない、コアな釣りファンである、いわば「アングラーズペンクラブ」のような人たちが提供してくれた最新の話題が載っていました。これが釣り雑誌の一つのスタイルだったのです。
僕はその時代に『アングリング』という釣り雑誌も読んでいて、それは日本各地の新しい釣りや釣りのスタイルを提案してくれるとてもいい雑誌でした。中学、高校、大学、20代と毎号買っていました。特に寄稿・投稿欄も多い雑誌で、当時の僕はおしゃれだったり、かっこよかったり、ダイナミックな釣りの記事、たとえば最新の道具や大きな魚、海外事情、感動的な釣り体験の記事を読みたがっていましたが、アングラーズペンクラブは地域のプロライターではない人たちが書いた文章ですから、自分の目の前で起きたことや自分が置かれている環境の話がメインで、締めくくりは「この魚に出会わせてくれた宮城県に感謝」という感じ。「一緒に行ってくれた仲間の○○君ありがとう」みたいな、自分が今ここに生きていることに感謝するような文章が多いんです。
僕は地域との接点のない釣り人だったので、「なんでみんな地域や友達に感謝するのだろう? もっとカッコいい終わり方にした方がいいんじゃないの?」なんてことを思う生意気なアルバイト編集者でしたが、30年経って気づきました。それがローカルなんだと。そういう思いのもと、みんなは日々の暮らしのなかで楽しく遊び、音楽に出合い、大きな魚を釣ったりしている。日常のなかで、感謝とともに遊んでいることの素晴らしさを僕はアングラーズペンクラブのみんなに教えてもらっていたと、今振り返ってそう思います。
このアングラーズペンクラブの皆さんが地域で暮らし、地域の1分1秒を感じ取っているのなら、それを伝えられるようなコーナーを増やしていけたら『ソトコト』が今やってみたいことの一つになっていくんじゃないかと思い、「ソトコトペンクラブ」をスタートさせました。「ソトコトペンクラブ」のペンフレンドになってくれる皆さんは、文章が上手・下手とか、悪文・良文とか、そこは問わない形で声がけしています。
募集をかけてから3週間で約60人もの人が「ペンフレンドになりたい」といってくれて、『ソトコトオンライン』の編集長とともに喜んでいます。楽しく発信できる人たちが地域に増えていくことは、非常に大事です。そして、「伝えたいけど伝える方法がない」と感じて留まっている人が大勢いるはず。せっかく地域のPRをしたい熱い人たちがいるのに、これじゃ育たないんじゃないのかなと。「ソトコトペンクラブ」で地域をPRする経験を踏んでもらって、実際に自分のまちの広報をやってみたり、自分でコピーを考えて自信をつけてもらったら、地域を盛り上げる力になるんじゃないかなと。そう思い『ソトコトオンライン』で発表する場をつくらせていただきました。毎月末くらいを締め切りにして、投稿できる人は投稿してくださいっていうスタンス。早速、みんなからおもしろい原稿が届いています。
一般的に、原稿は編集長が最後にチェックするものですが、「ソトコトペンクラブ」は逆で、僕が先に読んで「この記事、おもしろいね」とOKを出せば、それをソトコトオンラインの編集長が後からハンドリングするという流れです。僕のOKといっても、『ソトコト』の雑誌をつくっているときほど細かいチェックをするつもりはありませんから、「言い回しがちょっとどうかな……?」という投稿でもどんどん掲載しています。そこはご容赦ください(笑)。それが、「ソトコトペンクラブ」のおもしろさだし、生っぽさを残す「実験」でもあります。地域のファンのお便りコーナーみたいに広げられたらいいなと思っています。メディアの人間としては、こういう地域のPRの仕方もありなのではないかなと。目標は300名。各都道府県に6人くらいの書き手がいてくれるといいですね。ぜひ参加してもらえるとうれしいです。
指出一正の編集ポイント10
関係人口の議論が盛んになるとともに、地域からご依頼いただいて講演をする機会が増えてきました。「地域の魅力をどう発信したらいいか?」という大きなテーマで呼ばれることが多いです。地域で『ソトコト』みたいな発信がしたいと言ってくださる方がおられるのは編集者として喜ばしい限りです。そんななかで僕が、たとえば中学生のみんなや大学生など若い人たちに伝えていること、地域をPRする方法論についてお話ししましょう。
僕は編集者なので、やはり言葉で伝えることをいちばん大事にしています。言葉で伝えるときのコンセプトにしているのが、井上ひさしさんが「こまつ座」を主宰しているときにコメントされたか、記事にされた、次のような言葉です。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」。
とても有名な言葉で、僕のほかにも座右の銘にしている人は多いと思います。『ソトコト』は、たとえば「地域の今を伝える」とか「福祉の今を伝える」とか、「社会問題や環境問題の今を伝える」ということがルーツにあるメディアです。あまり堅苦しく考えすぎると真面目すぎるものになってしまうところを、どこかで柔らかくしないといけないという思いが常にありました。これは「地域をPRする」ときも似たようなことに直面します。たとえば、「子育てのまち」を標榜しているのに、まちには産婦人科がない。それをどう伝えたらいいか? あるいは、「年配の世代の方が多くて、若い人たちの移住が進まない」。これをどうしたらいいか? いつでもハッピーな話題提供で地域のPRをしたいというわけではないでしょう。地域には切実な悩みがたくさんあって、だからこそ知ってもらいたいケースもたくさんあるのです。ちなみに、この言葉には続きがあって、
「まじめなことをだらしなく、だらしないことをまっすぐに、まっすぐなことをひかえめに、ひかえめなことをわくわくと、わくわくすることをさりげなく、さりげないことをはっきりと」
という一文です。井上さんの「ひかえめなことをわくわくと」という感覚も、ぼくがワクワクするローカルプロジェクトをつくるうえで大切にしていることです。
雑誌『ソトコト』で熊本県水俣市の記事をつくらせてもらったことがあります。水俣の今を伝える美しい風景や海の豊かさ、おいしい紅茶をつくっている農家さん、おいしい玉ねぎを育てている農家さんなど、今の水俣を未来につなげようとしている人たちの生きている姿が伝わればとつくった特集です。水俣の歴史の上に立って、「今、こんな人たちがいるんだよ」ということ。難しいことをやさしく伝える方法として、これがいいと考えてつくりました。社会には避けては通れないいろいろな課題がありますが、それをどう乗り越えたらいいか? 悩んだときはいつも、井上さんの「むずかしいことをやさしく」の言葉を拠り所にて企画を練り、取材に出かけ、文章を書いています。
地域をPRするには、地域をよく知ることも重要です。地元の人にありがちなのが、意外と自分が住んでいる地域を見ていない、知らなかったということも多いのです。釣りの世界では、こうした現象を「竿抜け」と言います。たとえば、釣り人がたくさん訪れる川だと「そこは俺が全部獲ったから、もう魚はいないよ」という地元のベテラン勢がいたりしますが、実はそのベテランも、それを聞いた他所から来た釣り人も、誰もそこで釣り糸を垂れていなかったりすることが往々にしてあります。そういう場所が「竿抜け」です。釣り竿が入っていない、「抜けているところ」のことですね。僕は、地域にも「竿抜け」があると思っています。竿抜けは、関係人口や地域に対する固定観念がない人たちの方が見つけやすいというのが、僕の「地域の竿抜け理論」です。
「地域の竿抜け理論」を考える上で参考になるのが、宮本常一の父親が語った「10か条」です。宮本青年が15歳で山口県の周防大島を離れ、大阪の郵便局に勤めることになったとき、上阪する息子に伝えたそうです。たとえば1か条目は、
「汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ」
とあります。続きもあるので、興味があればGoogleで検索してみてください。2か条目は、
「村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ」
とあります。僕も取材で地方を訪れたら高いところへ上って、地域全体を見渡すようにしています。まちのつくられ方や動き方(移動)が見て取れるからです。スヴェン・ヘディンの『さまよえる湖』という本には、中央アジアのタクラマカン砂漠にあったロプノール湖が、砂漠のなかを移動しているという話が書かれていますが、それと同じように、まちもどんどん郊外に移動していくわけです。より暮らしやすい形を求めて、そのまちの移動の形跡がカタツムリが残していく透明でキラキラした足跡のように、高い場所から見えたりするのです。車がたくさん走っていてキラキラして見える場所は、そこに人が集まっている証拠なので、高いところからまちを見ることは地域を知る上で今でもやっぱり大事なことです。4か条目には、
「時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる」
と書いてありますが、まさにそうですね。僕も初めて訪れた地域では、時間があれば歩くようにしています。できれば直線ではなく、ジグザグで歩くようにしています。ジグザグで歩くと、旧通りと新しい通り、役所の前の通りとか、同じ時間のなかで4パターンくらいの通りの雰囲気を感じ取ることができます。でも同じ道を直線で歩くと、同じトンマナでしかその地域が見えてこないので、ジグザグで歩くことを勧めていますが、まさに4か条目がそれです。そして最後の10か条目で
「人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ」
と語っていますが、これがまさに「竿抜け」です。だから、地域に住んでいる人も、これから地域に関わろうとしている人も、地域をPRしたいときは「見残したものを見ること」をするといいかもしれませんね。
そして、恥ずかしながら僕も10か条をつくっていまして。「編集ポイント10の質問」というのを自分に投げかけています。記事をつくるときや校了するとき、特集をまとめるとき、みんなで何かをするときや誰かに委ねるとき、自分のなかで納得するための10ステップという意味でつくっています。要するに、記事を検品するためのチェックポイントですね。
1. わかりやすい内容ですか
2. 文脈がつくられていますか
3. 伝えたいことを絞りましたか
4. 個人の気持ちが込められていますか
5. 読む人の気持ちを考えていますか
6. 文章に頼りすぎていませんか
7. 自分の大好きな言葉や写真を使っていますか
8. その土地への愛情が詰まっていますか
9. 未来を向いていますか
10. おもしろい内容になりましたか
という10条です。「地域のPR術」というテーマで特集をつくると、文章が好きな読者から「広報をやってみたい」とか、「ライターとして発信してみたい」という要望が聞こえてきたりするのですが、6の「文章に頼りすぎていませんか?」だけ抽象的だといわれることが多いです。
説明すると、自分が理解していないことを書こうとすればするほど説明過多な文章になりがちというのが僕の経験則です。たとえば「発酵」について書くとき、発酵をよくわからない人は「発酵とはこういうものである~」と、Wikipediaみたいに書いてしまいがちです。それがPRになっているかというと、自分が発酵を知らないことへの言い訳を書いているだけに思えてくる。誰かに突っ込まれないよう、間違いのない形で地域を説明した文章を読むと、この記事は誰のためにつくっているのか、自分の身を守るためにつくっているような、そんな思いに陥ります。地域の魅力を発信することが大義なのであれば、「あそこ、間違ってましたよ。指出さん」と指摘されても、結果的に地域の魅力が発信されているのであれば、そんな細かいところはどうでもいいことなんです。地域に対して自信満々なら、極論、「とにかく来い」って書くだけでいいわけです。そういえる根拠があるわけですから。
でも、「それじゃあわかってくれないんじゃないかな」と、自分自身が地域の魅力を信じ切れていないと、言い訳のPRになるわけです。「この人も立てなきゃいけない、あの人も立てなきゃいけない、これが入ってないとポスターにしたときヤバいな」とか。そうしたPRをしていると、内容が幕の内弁当化してしまい、結果的に人の心に刺さらない無難なPRになってしまうことがよくあります。だから、地域やそこで活躍する人の魅力を伝えたいときは、僕が自分に10か条を課しているように腹をくくること。自分の基準をしっかり持って、自信がある状態で発信をする姿勢が大事だと思います。「文章に頼りすぎていませんか?」というのは、真実をちゃんと理解できていないと文章が華美や過度になるので、そうならないように勉強したり、理解したりすることが大切だという自分への戒めでもあるのです。
地域をPRするための写真の撮り方
地域のPR術として必要な写真の撮り方も話しておきましょう。僕はルーツが雑誌の編集者なので、平面でいかに何かをおもしろく伝えるかとか、平面から想像をかき立てられるような、手に取った人がワクワクしてくれることを目指して発信の技術を培ってきました。映像のプロデューサーとして好評を博した「ライク・ア・バードokitama」のようなプロジェクトやアニメーションの監修もしてきたので、その点も考えると、全部に通じることだと思います。「○○流」という言葉がありますが、たとえば藤沢周平の時代小説に登場する武士が「なんとか流」の使い手だったりするように、それと似たいろいろな「○○流」があって、これは「指出流」だと思って聞いてください。「指出平面流」みたいな感じがいいかな(笑)。写真は「いかに仕事で使えるか?」だけを考えて撮っています。仕事というのは「地域のPRに使えるか?」ということでもいいと思います。僕の場合は、今はスマートフォンで撮ることが多いのですが、大きく分けると2つの方法で写真を撮っています。
一つは、風景を撮るときも人物を撮るときも、写真に文字を載せやすいかどうかを考えます。つまり、写真のど真ん中に人が来るような撮影の仕方ではなくて、写真スペースの下2分の1か、上2分の1かに細かい情報、たとえば鳥が飛んでいるとか、家族が集まっているようなシーンは必要ではなく、空だけが写っているように撮り、そのスペースに文字を入れるのです。
写真と文字がミックスされることで、より強い発信の仕方になります。エディトリアルのカメラマンは必ずそういうふうにして撮っています。微妙なレイアウトの違いにも対応できるよう、対象を1センチずつずらした写真を何枚か撮ってくれたりもします。僕はプライベートも仕事もごっちゃになった生活を約30年続けているので、魚の写真を撮る、家族の写真を撮る、風景や建物の写真を撮る、どんなときでもそういう余白、タイトルやリードやキャプションを入れやすい撮り方をする癖が染みついているのです。
もう一つ、雑誌の編集者は「センター」を避けます。紙のメディアでは「ノド」と言いますが、左右のページがつながる真ん中の部分です。ノドは雑誌のページが真ん中に近づくほどなかに食い込んでいくので、中心人物を真ん中に置いて撮ると、人が飲み込まれて顔が見えなくなってしまいます。だから、写真を撮るときはノドのスペースを空けておくことも意識的にやっています。
これは誌面づくりの世界でしか通用しない技術かもしれませんが、写真を記念撮影だけで終わらせず、「PRに使えないか?」という視点で、目の前の光景をロスなく保存するよう、写真の撮り方も気をつけています。
写真撮影を上手になるいい方法の一つに、いろんなパターンの写真を見ることが挙げられます。「森山大道さんが好きだ」とか「植田正治さんが好きだ」とか「ロバート・メイプルソープが好きだ」とか「蜷川実花さんが好きだ」とか、いいなと思う写真があったら奥付のクレジットをチェックして、その写真家のポートフォリオとかも見ておくと、自分の頭のなかに写真のパターンが増えていきます。
僕が好きな写真家は大勢います。地域のことをすごく素敵に撮られている浅田政志さんも大好きな写真家です。「写真とはそういうものか」と教えてくれたのは、もう亡くなってしまった吉野信さんという90年代の動物写真家です。テンガロンハットをかぶって、ダリみたいな髭を生やして、すごくかっこいいカメラマンです。星野道夫さんの写真も大好きですが、吉野さんは星野さんよりも少し前の世代の写真家で、引きの写真が多かったのが印象に残っています。被写体に近寄らない引きの写真。
たとえばアメリカのバイソン。野生動物が自然のなかでたたずむ引きの写真が多くて、なぜかと不思議に思っていたとろ、「その動物が暮らしている環境も伝えたいから」と人づてに聞きました。なるほど、寄りの写真なら動物園で撮ればすごい表情を撮れるかもしれないけど、僕たちが知るべきは野生動物がどんな世界で生きているかということ。吉野さんが、環境の豊かさが野生動物を生かしていることも含めて写真で表現しようとしていたなら、それこそエコロジカルでアースセンタードな撮り方に思えて、すごく感動したのを覚えています。
それから僕は引きの写真が好きになり、アフリカやアイスランドで撮った引きの写真を見開きに大きく載せるなど、引きの写真を積極的に選ぶようになったので、アートディレクターから「指出、引きの写真を使いすぎだろ」と言われることもありましたが、地域を見たり考えたりするとき、「引きの価値観」を生かした写真も大事かもしれません。
おいしいスイーツを撮るとき、引いて見ることでスイーツがつくられた環境や地域経済も一緒に伝える。岡山のカッコいいジーンズを撮るなら、デニムを編む古い機械が並ぶ工場の雰囲気は引かないと伝わらない。クローズアップすることで生まれる“映え”もありますが、その商品の過程やストーリー、たとえば畑や山、水系みたいなものまで理解したうえで、引いて見た方が生きたおもしろさが増えるのではないか。地域の魅力はもっと伝わるかもしれないと考えて、「引きイズム」も推奨しています。
一日を140字でまとめる
地域をPRするとき、文章を書くことが苦手で、PRを躊躇してしまう人も少なくないと思います。そこで、文章が上手くなる秘訣をお伝えしましょう。次の文章は、雑誌『ソトコト』の2014年12月号「発酵をめぐる冒険」という特集を組んだ際に僕が書いたリードなのですが、
まさに文章に頼りすぎてるんですよね。「味噌や醤油や日本酒、ワインにビール、パンも漬物も鰹節も、ピクルスも納豆もチーズも」と、長いですよね。わざと列挙したというのもありますが、それにしても説明がましい。リードの後に続く特集記事には小倉ヒラクさんが出てくれたり、ココファームワイナリーを紹介したり、「発酵」を社会のなかで軽やかに真摯に伝えています。そんな素晴らしい実例がたくさんある特集のリードとしては恥ずかしい内容だったなと。僕が発酵文化をそこまで深く知らずに書いたのが見えてきます。何でも知っている万能な人間なんていませんが、何でも知っているように見せようとするのはどうかなと反省した覚えがあります。
ということで、文章を上手に書きたいなら、リードを書いてみるのがいいと思います。毎日、その日に起きたことを140字でまとめる練習を続けると文章が上手くなると思います。一日っていうのは、自分が思っている以上にいろんなことが起こります。朝起きてから夜寝るまで、まとめるとなると編集の力が大切だし、一日に起きたことをしっかりと伝えるための文章や表現には、編集の技術が必要なんです。1秒ごとに起きたことを全部書くわけにはいかないけど、どの出来事を外したらいいかわからない。一日24時間、寝ている間も夢を見たりしてるから、いろんなことが起きていて、そんな一日をうまくまとめるには編集の手法が生きてくるんです。いとうせいこうさんも同様のことをおっしゃっていたと記憶しています。組み合わせるとか、捨てるとか、技術はいろいろありますが、いちばんは「140字で一日をまとめる」というのが分かりやすいと思っていて、講演とか学生の皆さんへのレクチャーの場でそう伝えています。
なぜ140字かというと、エディトリアルデザインのデザイナーって、レイアウトを組むとき、リードの文字数を大体140字から160字くらいで出してくるんです。あれは、菊池寛さんから始まったのかはわかりませんが、日本の長い編集技術のなかで培われた共通感覚だと思うんです。140字だと読みやすくて、「パンの特集か……。本編も読んでみるか」と思う。僕よりも前の先輩たちからバトンを受け渡されるように、「雑誌のリードは140字から160字がいいよ、指出くん」みたいな感じで教えてくれているんだと、勝手に思っています。
この「140字から160字」って何かに似ているなと思ったら、「X」なんですよね。Xって、通常だと140字くらいで1回の投稿になっています。日常において、誰かに今の気分を伝えたいときにちょうどいい文字数なんだろうなと考えると、「日本の編集者たちはX的な思考や感覚をすでに持っていたのかもしれない」という話をすると、それを聞いた皆さんが一生懸命まとめてくれて、小さな日記のような文章がたくさん生まれます。
そして回数を重ねると、長文と短文のつなげ方や体言止めと、ひらがなと漢字の割合など、いいバランスが見えてきます。僕の場合、6割くらいがひらがなで4割くらいが漢字の文章が、井上さんの文章を読んで得た黄金比率です。ひらがなを混ぜると優しくなるというのは皆さんもおわかりかと思います。
次に紹介するのは、「小布施若者会議」に講師として呼ばれたとき、ワークショップに参加してくれた20代のみんなと一緒に、一日を140字くらいでまとめた文章です。ちょうど前の日に和歌山県に行って、若い人たちのトークセッションに参加したときの話を、地域をPRする視点で書きました。
これは日記ですが、自分のために書いた日記であり、これを読んだ人にバトンをつないでもらいたい日記になっています。どういうことかというと、一文のなかに「検索すべき言葉」が必ず入っているんです。たとえば、「和歌山県田辺市ってどこにあるんだろう?」「和歌山ジャーニーってどんなプロジェクトなんだろう?」「地域を紀南、紀中、紀北って呼ぶんだ」「北山村ってどこにあるんだ?」 「じゃばらジュース? じゃばらってなんだ?」 「7つのローカルプロジェクトってどんな内容なの?」 「旧体育館って言うからには、やっぱり人口が減っているのかな?」という具合。
読者に深掘りしてもらえたら、きっと地域の魅力が伝わるだろうと、言葉を選んで日記のなかに入れています。気になって調べた結果、たった140字の情報が2万字の情報インプットまで増えるかもしれない。そう思いながら書いています。深掘りしなくても一読すれば内容と情景がわかるように書いていますが、和歌山やローカルに興味がある人は検索して、深掘りしてくれたらうれしい。一つの完結した文章でありながら、次につながる文章にしたいという気持ちを含めて書いています。それは、僕の旅の仕方に通じるところがあります。
プライベートな旅をするとき、ぼくはあまり予習をしません。特に初めて行く地域の場合、下調べは最小限にして、帰って来てから「あの場所にあった看板って何だろう?」とか、「とりあえず空いているから入ったおばあちゃんの食堂は、評価はどのくらいだったんだろう?」とか、そういう復習型の旅をすることが多いです。なぜなら、復習型の方がその地域との関係が完結しないんじゃないかなと思うからです。
予習をしていくと答え合わせの旅になってしまいがちです。予習したところに行って、予習した通りにことが進んで楽しかった。すべての目的を達成して、地域への関心がそこで終わってしまうかもしれません。そうではなく、答え合わせは最小限にして、わからなかったことは持ち帰ってもらった方が、「次こそは」という感じで関係が持続するのではないかと思っています。
ちょっと風変わりな名前のスナックが閉まっていたけど、検索するとすごく楽しいマスターが温かく迎えてくれる、そんなレビューを読んだら次に今度は行きたくなるじゃないですか。偶然に目にして、その場では答え合わせはできないけれど、帰りの電車や家に帰って来てから調べて、おもしろそうだったらまた行こう。そう思ってもらうためにも、迎え入れる地域側もすべて答え合わせさせない方がいいんじゃないのかなという気はします。答え合わせが完璧だと「よし、じゃあ次」と別の地域に行っちゃうかもしれませんからね。