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連載 | 今だからこそ話したい セゾンカルチャーってなんだったのか | 3

【水野誠一 連載】榎本了壱と語る(下)「影」の必要性。街の活力は“アジール”にあり!

水野誠一

水野誠一

榎本了壱

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ソトコト総研代表で株式会社IMA代表取締役、そして元西武百貨店社長でもある水野誠一が、セゾンカルチャーを知る著名人と対話する連載企画「セゾンカルチャーってなんだったのか」。1人目の対談相手は、時代の空気を鋭くつかみ、アートやデザイン、演劇、雑誌編集など、さまざまなジャンルの文化を横断的にリードしてきたクリエイティブ・ディレクター、プロデューサー、そしてデザイナーの榎本了壱氏です。全3回に渡る両氏の対談、その3回目(最終回)をお届けします。

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目次

なぜ新宿から若い人たちが消えたのか

水野 「公園通り」の時代は、ストリートファッションがすごく出てきた。モードはデザイナーがつくって発信するというのが常識だったのに、ストリートからモードやファッションが出てくるということになったのもその頃ですよね。

榎本 まさに。代々木公園のストリートから「一世風靡セピア」や「竹の子族」が出てきて、それが南下し始めてコギャル、ガン黒までずっと南下していくんですね、渋谷で。これは新宿にはなかった出来事ですね。

みんなある特定の場所で飲んだくれてんじゃなくて、遊牧民のように、ノマドのように、街をさまよいながら。同時に彼ら彼女らは、コンシューマーだった。竹の子で買った、セーラーズで買った、ピンクハウスで買った、ゴスロリを買った、みたいな子たちが街に流れ込んできて。つまり劇場を持たない子たちがそこに存在することによって、町全体を劇場化したんです。しかしこれはね、新宿にはなかった。

もちろん新宿もすごく限られた劇場でやってる連中が暴れてたけれども、もう全然劇場と関係ないストリートな子たちがストレートにパフォーマンスし始めたわけです。 だからコンシューマーがパフォーマーになるっていう、そういうコンセプトがやっぱり渋谷にはできたんじゃないかなと。

竹下通りもそうです。まさにそうですね。

水野 新宿はやっぱりちょっと昔からの建物や場所の概念がしっかりできすぎちゃったのかもしれませんね。だから渋谷のようなカルチャーは出てこなかった。

榎本 今度、僕はトークイベントをやるんですが、そのタイトルは「イベントアングラの新宿、サブカルの渋谷」。「新宿から若者が消えた日」というサブタイトルがあるんですが、それは何かと言うと、1969年6月28日に新宿西口地下広場からフォークゲリラを追い出した日なんです。

水野 なるほど。

榎本 新宿では、1968年10月21日に「新宿騒乱」って言われる大きな闘争がありました。機動隊にコテンパンにやられた学生たちは逃げまくるわけだけど、その後、フォークゲリラというフォークソングで平和を歌う人たちが毎週土曜日に集まって、若い人で満杯になるんですよ、あの広場は。結局、そこに警察が入ってきて追い出しちゃう。

この2つの出来事で、若者が新宿に対して愛想をつかしたっていうか俺たちの街なのにさ、なんだよっていうような、反感、街に対する失望を抱かせたんじゃないかと思うんですよ。

なんとなく恋人とキスしていいような……そういう場所がない空間に魅力はない

水野 今、渋谷から若者が少なくなっていますよね。

榎本 それから、50年経った今、渋谷で何が起こっているかって言ったら、スクランブル交差点のハロウィンの「若者たちの排除」ですよね。

水野 子どもが秘密基地をつくるみたいなことは、許されなくなっちゃった。でもね、そういう場所は確実に必要なんですよ。日本の社会全体がそういう、うん、コンプライアンスみたいなことで、どこもが危なくないような、安心、安全で、人に迷惑をかけないみたいなことを目指している。それはそれでよいんだけど、文化っていうのは、なんかもっとすれすれなところで育っていくんじゃないのかな。

榎本 ずるいんですよ。「ハロウィンの日は渋谷は休みです」とか、大きい垂れ幕に「NO」って書いてあって、下に「スモーキング、ドリンキング」と書いてあったりね。「タバコ吸うな、酒を飲むな」ということを言いたいよりも「来るな」って言ってるんでしょって、そういう変なレトリックを使った垂れ幕をかけたりしてね。

センター街のお店の人たちからしてみれば、立ち飲みはするわ、ゴミは出すわ、下手すると車をひっくり返すわ、みたいなね。乱暴者が出てくるのはそりゃ困るだろうなと思うんだけれども、うん、やっぱりそういうことを整理していくことによって「アジール」がなくなるんですよね。で、やっぱり街の活力って、どこかにアジールがあるっていう。

水野 アジール、ですか。

榎本 アジールっていうのは、「自由自治」みたいな地域のことです。戦国末期の堺の町みたいに、武器商人が有象無象いてというような。千利休も武器商人だったっていう話があるんだけど、うん、その自由自治っていうのは、実はすごく怪しくて。うん、アジールっていうのは、「悪所」っていう意味もあるらしいんですよ。

つまり、悪い場所。

浅草、浅草寺の裏に吉原があるように、そのサンクチュアリとアジールってペアなんですよ。そのアジールが自由だというのは、実はお上が立ち入られないところだから、やばいこともいっぱいあるんですよね。たぶんこの新宿の面白さというのは、ゴールデン街、歌舞伎町に代表するように、うん、その自由自治ではあるけど悪いぜっていうような、ちょっとやばいぜっていうところもあって。そこになんか、街の不思議な活力が生まれてたんじゃないのかなと思うんですよね。

水野 すごくわかります。僕はアジールという言葉は知らなかったけれど、西武時代に新しい店をつくるときに「悪場所」が必要だと言っていました。つまりね、魅力的なショッピングセンターでもなんでも、悪場所がないとダメだと。

「犯罪が起きちゃ困るからそんな場所はいりません」という人はいました。それはわかりますよ。目が行き届くような店をつくろうってことを、普通はみんな思うわけですよ。

だけどね「どこか影があって、なんとなく恋人とキスしていいような……そういう場所がない空間に魅力はないよ」って言うと、みんなから軽蔑の視線を向けられましたけどね(笑)。でもまさにこのアジールという言葉ですね。

榎本 街をつくる人間は、水野さんが考えたように、どっかに危ないところを用意しとくことは大事だと思うんです。それはどこかスリリングな場所っていうのかな。そういうものが必要だと思うんです。

水野 さっきの新宿から若者が消えたという話からいくと、僕は街からホームレスが消えたっていうのも、許せない話だと思いますね。渋谷でも、結局、宮下公園のホームレスを全部排除したんだけど。ホームレスが消えてしまうのは何か違うような気がするんです。僕はホームレスのおじさんと話をするのが好きで、この人の人生ってのはどういう人生だったろうなと思ってね。みんな、なかなか話したがらないけど。

榎本 たぶん、新宿のフォークゲリラを排除する時も、おそらく西口ってものすごくホームレスがいたから、一緒にどかせばいいという目論見は警察としてもあったんじゃないですか。

『ビックリハウス』から美術展も生まれ、アートも育てていった

水野 『ビックリハウス』というタウン誌は、雑誌文化のなかのアジールみたいなところがありましたね。 

榎本 まさにね。『ビックリハウス』をやっていたエンジンルームというのが、萩原と僕の会社なんです。社員は30数人いたんですけど、結局『ビックリハウス』を止めると同時に全部解散しました。リクルートなんかの仕事も随分やってたんですけど、それは担当していたメンバーにあげて。

西武百貨店の『工夫生活』という小冊子も何冊か編集させてもらいました。『ビックリハウス』とは関係のない仕事をずいぶんやりました。シネセゾンのポスターも70本ぐらいつくった。

でも面白いことに、80、90年代に入ると、東急文化村からポスターをつくらないかって話が来るんですよね。セゾングループの仕事をしていた人は、みんな面白い人といっぱいやってるんで、そこを崩そうとしてるというか。結局、石岡(瑛子)さんたちもやり始めてるしね。

水野 自分たちでそういう人を育てりゃいいのにね。

榎本 全然育てられていないですね。 

水野 バブルが崩壊した後にも、そのカルチャーを本当は残さなきゃいけなかったんだけど、なんかあっという間にしなびちゃった。そこがもったいないよね。でも榎本さんは相変わらず活躍してる。

榎本 僕は小さい仕事しかしなかったので、生き延びられたっていうのかな。それはそれでよかったなっていう感じがしますよね。バブルが終わった後は、ほんと大きい仕事をしていた人って大変でしたからね。

水野 JPC展から日本グラフィック展へと、アーティストの発掘も見てきたわけでしょう。

榎本 JPC展という広告のパロディ展がきっかけで日本グラフィック展が始まるんですけど、パロディは下手なのに絵は上手いやつっていっぱいいるよねっていうんで、じゃあ絵だけの展覧会をやろうかということで。

で、この日本グラフィック展というのは増田さんもすごく好きで。増田さんのお父さんは画家ですから、彼も少年時代にお父さんと一緒に都美術館まで作品運びに行った経験があるんですよね。それで入選すると、上野でなんか食って帰れるんだそうです。入選しないとそのまま何も食わずに世田谷に帰るという。彼には少年時代のそういうトラウマがあったみたいで。

それで、日本グラフィック展にはものすごく思い入れが強かったんですが、パルコが日本グラフィック展とオブジェTOKYO展の2つをやるのは厳しいっていうことになって、1つにまとめられないかっていう話になるわけですね。

コンペのイベントも年に2つもやると、ものすごいエネルギーを使いますからね。それじゃあということで、この後「URBANART」展にまとめた。その直後に、増田さんが手がけたパルコのポスターの展覧会を、恵比寿の写真美術館でやった。僕が会場へ行くと、もう小池一子さんから、山口はるみさんから、浅葉克己さんから、ずらっといらっしゃって。

水野 すごいメンバーだね(笑)。

榎本 そうしたら増田さん、僕に「おまえ、帰れ!!」って怒鳴るんです。なんで俺が怒られるのかわからないけど、「帰ります」と言って。それでパルコから電通に行ってた越川さんに「オレ、増田さんに怒られたんだけど、なんかしたのかな」って聞いたら「日本グラフィック展という展覧会を『URBANART』に変えたからだ」と。

水野 でもそれは榎本さんがやったわけではなく、パルコの都合でしょう。

榎本 そうですよ。2つは厳しいからって。それで萩原に話をつけてもらって、全日空ホテルで飯を食う会をやって「申し訳ありませんでした」って謝ったら、「いいんだよおまえ」って許してくれましたけど。手打ちをやったんですね。

増田さんはひとつずつやったことへの思いが、ものすごく重い。深いんです。だから、僕が「日本グラフィック展」をプロデュースしたなんて言うと、増田さん怒ると思う。俺がやったんだよって絶対言うと思いますけど。

だけど、僕は増田さんという人に本当に会えてよかったです。彼がいたからこそ、その先の全てがあったので。

座談会では岡本太郎と池田満寿夫のバトルが

水野 そうそうたる人たちが「日本グラフィック展」「オブジェTOKYO展」から育っていますね。

榎本 海外からもね。審査員としてキース・ヘリングも来てますし。オブジェTOKYO展のほうは、最初、岡本太郎さんと池田満寿夫さんでしたからね。もう飲みながらの座談会になったら、岡本太郎と池田満寿夫が大喧嘩になってね。

水野 どちらも本気をぶつけたわけだ。

榎本 池田さんもすごくストレートでナイーブな人だから。「僕は美術の歴史に残りたい」って、すごく率直に言ったんですよ。そうしたら、岡本さんが「そんなこと考えてどうすんだ!」と。そうしたら東野芳明さんが「そうだそうだ、アーティストはそんなこと考えなくていい」と。池田さんは「いや、僕は美術の歴史に残りたいんです」と。

僕はどちらかと言ったら、その率直な池田満寿夫の言い分が好きで。池田満寿夫ってすごくストレートでいいなと思ったんです。アートを志す人って、みんなそういう思いを少しずつ持ってね、生きてるんだろうなと思って。太郎さんぐらいになったら、もうそんなことを言えるけど、池田さんはまだまだ作家として真っただ中だったから。

水野 僕は彼の作品を2点、今でもオフィスに飾っていますよ。池田さんは亡くなるのが早すぎた。

こういう話も残しておきたいですよね。

構成:森綾 http://moriaya.jp/

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