MENU

人々

連載 | 今だからこそ話したい セゾンカルチャーってなんだったのか | 2

【水野誠一 連載】 榎本了壱と語る(中)一色になった街からはカルチャーは生まれない

水野誠一

水野誠一

榎本了壱

榎本了壱

  • URLをコピーしました!

ソトコト総研代表で株式会社IMA代表取締役、そして元西武百貨店社長でもある水野誠一が、セゾンカルチャーを知る著名人と対話する連載企画「セゾンカルチャーってなんだったのか」。1人目の対談相手は、時代の空気を鋭くつかみ、アートやデザイン、演劇、雑誌編集など、さまざまなジャンルの文化を横断的にリードしてきたクリエイティブ・ディレクター、プロデューサー、そしてデザイナーの榎本了壱氏です。全3回に渡る両氏の対談、その2回目をお届けします。<初回から読む>

目次

東急一極化で、渋谷の多層的な文化が終わった

水野 今言えばセゾンカルチャーだけど、その頃、セゾンって言葉はまだなかったので「西武カルチャー」、あるいは「パルコカルチャ」ー。そういうものをつくるんだという意識はすごくありましたね。

今の渋谷という街を見ていると、榎本さんが分析してきたような地図がかなり変わってきているじゃないですか。渋谷スクランブルスクウェア、渋谷ストリーム、渋谷フクラス……と、ちょっと東急が強引に駅前を再開発しちゃったと思うんですよね。 東急と西武がいい塩梅で刺激し合っていたときとは違う様相になっちゃったじゃないかと。

ともかく東急百貨店が、昔の東横百貨店もとっくになくしちゃった上に、本店までを壊してしまった。この現状の渋谷に関して、榎本さんならこれからのビジョンをどう描かれますか。

榎本 地図を見れば歴然で、この井の頭通りから公園通りにあたる一角っていうのは、ほとんど西武セゾングループが開発していますね。どちらかというと本当に地味な場所で、山手教会の下に小劇場のジァンジァンがあって、その少し上に行ったところにフレンチレストランのジローがあって、ライブなんかをやってましたよね。

その先に渋谷公会堂があって、NHKへと続く。この辺りは本当に寂しいところだった。でも西武百貨店からパルコの登場で、「渋谷=道玄坂、宮益坂」っていう歴史を「渋谷=公園通り」に塗り替えた。人の動きを変えてしまったという、これはものすごい大きいことでした。

渋谷って結構面白い地形をしていて、渋谷駅がいちばん低い位置になるのかな。で、ここに宇田川が流れていて、代官山の方に流れていくわけですよね。で、ここは今、埋め立てられて雨水貯留施設があるんでしょう。そういう水の町なわけですよ。

水の上に浮いてるような地形なんですよね。そこの中心に東急のターミナル駅があって、これは東急グループにしてみれば彼らの一番大きな領地であることは間違いないんだけれども、西武が出てくることによって、本当にその二極化の対立がものすごい文化の競争を生んでたと思うんですね。

しかも新参の西武が、圧倒的に面白い文化を展開していった。だから、90年代ぐらいまでは東急は明らかに西武を追いかけた歴史だったと思います。間違いなく。ところが、やっぱり東急は渋谷周辺の土地を圧倒的に持っているから、自分たちの老朽化した建物を2000年代から一挙にリニューアルしてし始めた。そこで企業のパワーバランスは東急一極化になってしまって、渋谷のその多層的な文化が終わったと。この東急西武戦争は終わったなっていうふうに思うんです。

渋谷にさらに再開発の波が。生活者と密着したカルチャーが見えなくなる

水野 今、西武のA館B館も含め、そのあたりも再開発されようとしているんです。ところが幸か不幸か、その一帯の地主さんが、一家言ある方なので一筋縄では行かずに、ちょっとのびのびになっている感はあるのだけれど。再開発が実現しちゃうとパルコに至るこの公園通りの様相までもが、まるで変わっちゃう可能性がある。それは別に西武だけではなくて、渋谷全体の問題になってくるんですよ。

榎本 今、東急東横線の跡地の、宇田川沿いの再開発がすごいですよね。結局、公園通り方面に行くエネルギーを「全部駅前に動かそう」という計画だなっていうのは見え見えですけどね。

水野 宮益坂周辺に昔から知られているアミューズメントビルがあるんですよ。そこは小さなビルなんだけど、ボーリング場が入ってる。ここをやってるのは私の友人なんですが、やっぱり東急から再開発するから協力してくれという話が来ていて、周辺の地権者がほとんど話に乗ってしまい、土地を売って出て行くか、地権者として新しい施設に参加するかということを迫られているんだけど、その新しい施設にはボーリング場は不要だと東急に言われてしまったらしい。

でも昔から、わざわざボーリングをやりに来たり、ゲームしに来たりしているお客が街のサブカルチャーをつくってきたっていう歴史があったと思うんですよ。それが、ここもまたステレオタイプで非常にキレイなビルになっちゃうという。 東急プラザ横の、のんべい横丁が消失してしまうのか? みたいなことも含めてね、かなり危険な状態に入っていますね。

榎本 まさに一極集中になっちゃいましたよね。

水野 町というのはそのなかに異質なもの同士があって、言いかえれば異質な文化があって、初めて面白くなるのに。全部を一色に塗り潰しちゃったら、本当に面白くない。

榎本 もう2000年代に入ると、ほんとに文化屋雑貨店とか、そういうインディペンデントなお店がほとんど消えていくんですよね。だから、そういう、生活者に密着したようなカルチャーが根付いているということに、みんなすごくシンパシィを持っていたはずなんだけれども。それが今、全然見えないですね。

新宿にもキレイ化が押し寄せる。東京の魅力が消える

水野 新宿はどうですかね。

榎本 新宿の方はたぶん新宿文化アートシアターが中心かな。ゴーゴー喫茶やジャズ喫茶、バー。そういうところに入り浸ってる連中が、アンダーグランドシネマとかアンダーグランド演劇とかっていうのに、ずっとこう、シンパシティを感じているっていう。ものすごく濃密な関係があるんですよね。

水野 ゴールデン街、歌舞伎町があって、3丁目。

榎本 うん、東口角筈、西口3丁目、新宿2丁目、新宿3丁目と、隙間なく飲み屋と喫茶の世界があるんですね。ちょっと怖い感じですよね。

天井棧敷も1969年に渋谷に劇場をもつまでは、やっぱり新宿でした。映画もそうですね。新宿の映画館の中心は歌舞伎町の方に。昔は外国映画を中心に上映するミラノ座とか大きい映画館がいっぱいありましたけど。

水野 僕にとっては、「ATG(日本アートシアターギルド)」の登場がとても強烈な印象だった。ここで一時期、1000万円の制作費折半で映像作品を公募したじゃないですか。大学時代、友人と一緒に、それに応募しようとしたことがある。母校だった開成高校の先生を死神の役で出してね(笑)。残念ながら自己資金不足で挫折してしまったんだけど、今考えると面白かったな、あの頃は。

榎本 1961年にATGができて、1962年に新宿文化アートシアターが建った。ここらへんが、アングラと言われる新宿文化が始まる大きなきっかけかなっていう。映画といえば、東映、大映、松竹、東宝、日活。そういうちゃんと大手の映画会社を牛耳っていたところと、外国映画。それに対してすごいインディペンデントな映画がどどっと出てくるんですよね。

三島由紀夫が『憂国』を作ったのが1966年かな。1969年に横尾忠則さんが出ている映画『新宿泥棒日記』を大島渚さんが撮って、1971年の寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』は僕が美術をやっているんですよ。その時、ポスターもつくることになって、1970年か1971年の初めぐらいに新宿文化に行って、伝説の葛井欣士郎さんに会うんですね。緊張しましたよ、それは。

水野 こうして話を聞いていても、やっぱり文化というのはサブカルチャーに限らなくても、「混沌」の中から生まれてくるじゃないですか。それがやがてメインカルチャーになるものもあるし、サブカルチャーのままでいるものもあるけどやはり、キレイな文明的な街からは、文化は生まれてこないですよ。

その混沌が東京の魅力だったはずです。どこも「キレイな高層ビルに囲まれた文明的な都市」になってきちゃってるっていうのが、すごく残念ですね。

<続く>

構成:森綾 http://moriaya.jp/

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね
  • URLをコピーしました!

関連記事