打楽器奏者として、音を自在に操るだけにとどまらず、言葉をおもしろがり戸惑う気持ちをありのままに。角銅真実さんが放つ、最新作。
誰かの暮らしの中で流れる音楽になるように。
マリンバをはじめとするさまざまな打楽器の演奏を行う音楽家の角銅真実さんは、時にはホールを埋め尽くす観客をトライアングルひとつで魅了する。「越後妻有アートトリエンナーレ2015」での滞在制作や、2019年9月に行われた『富山県立美術館』でのサウンド・パフォーマンスなどで、その存在を知っているという人もいるかもしれない。
角銅さんは自身の音楽制作について、「最初は、ここじゃないどこかに行くため、誰ともかかわらず独りになるためのものだったんです」と語った。実際、ファーストアルバムは、ほぼ一人きりでつくり上げたものだが、最新のサードアルバム「oar」では、多くのミュージシャンやスタッフの協力を得ている。さらに今作よりインディーズからメジャーへ。音楽が届く先が格段に広がる可能性を秘めている。本人曰く、「自分にとって自身を現実から切り離す手段のはずの音楽が、逆にやればやるほどいろいろな人や事への出会いを連れてくる。身の回りも自分自身もどんどん複雑になっていく。なんていうか、自分の中に社会が入ってきた感じ」。
信頼できる多くの仲間に支えられる一方で、心の中には、子どもの頃からの変わらない思いがある。それは、人間同士、完璧に分かり合えることは絶対にないということ。「目の前にある白いカップをみんなで見ているとして、そこにいる一人ひとりの目玉も脳みそも同じじゃないから、私が見ている白と相手が見ている白は、色がきっと違うんです」。
白い色ひとつとっても、誰も同じものを見ることはできない。分かり合うことはないのだ。でもそれは、決して寂しいことではないという。「自分と他人との距離があるからこそ、人は誰かに優しくしたいと願うんだと思います」。それに、大切な何かを見つける時こそ、「誰かと」ではなく、「独り」でのほうが多かった経験から、「独り」は悦びをもたらすということを知っている。
だからこそ、「独りぼっちの感覚」を失いたくないと言う。「この感覚を、誰かの元に届くまでどうやったら保てるかなと考えながら、アルバムをつくりました」という言葉にも、多くの人と過ごすことでの刺激や、季節の移ろいにすら、流されまいとする気持ちが見える。
一方、「oar」をつくるにあたって、変化したこともある。それは、ここではないどこかへ行くためにあった音楽が、目の前の暮らしの中にあればと思うようになったことだ。
「もちろん、毎日コーヒーを淹れたり暮らしの楽しみみたいなものは私にもあるし、暮らしの中にいるけれど」とした後、「今までそんなに暮らしに目を向けたことはなかったから」と続けた。「人の暮らしに興味があります。たくさんの人に聞いてもらいたい! というのとは違って、人の暮らしの側にある音楽になれたらなあって」。
暮らしの側にある音楽。一見、当たり前のようでもあるが、暮らしというものに目を向けるようになったのはなぜだろうか。すると、地元・長崎県で暮らす母親について話してくれた。父方の家族と同居し、自分のことは後回しにし、家族を優先して生きてきた母は、声や言葉を使って自らを表現している娘の様子に、戸惑ったはずだ、と。しかし、過去2作のアルバムを気に入った母の「毎晩これ聞いて、ワイン1杯だけ飲んで寝るとよ」という言葉。自分の音楽が誰かの暮らしの一部になっていることに気づかされ、驚いたのだそうだ。ワインを片手に、家で仕事をしながら、夜散歩をしながら──。誰かの暮らしの中で流れる音楽になるようにという願いは、こうやって芽生えたのだ。
そしてもうひとつの変化は、言葉。言葉を作品に取り入れたことだという。リズムを通じた表現にさらに、「うれしい」とか「悲しい」とあえて言葉にする不思議さを、味わっている。「今まで旋律だけでそれを現してきたのに、さらに言葉まで使ってもいいんだ! って」。同時に、言葉の持つ力に難しさも感じている。「言葉にすればそれだけで、物事は強く限定された答えになってしまう。それってどうなんだろう」。あらゆることには答えはない。一人ひとり受け取り方は違うはずで、決めつけることなんてできないと考える角銅さんだからこその、戸惑いかもしれない。
音に加えて言葉も表現に加わった、今作。言葉をおもしろがり言葉に戸惑う、角銅さんから届けられる「独りぼっちの感覚」を、耳を澄まして目を凝らして、受け取りたい。