今年で7回目を迎えた「ひろしま音~楽(おんらく)まつり」が、8月6日無事に広島平和記念公園で開催されました。いったいどんな人が、なんのために行っているお祭りなのか、実際に現地を訪れたときの様子を交えて紹介します。
「広島」と聞いて思い浮かべるものは? 音楽祭をしようと思ったきっかけ
「どこから来たの?」
ひろしま音~楽まつり
と答えると人々の顔から笑顔が消え、同情、あわれみ、心配、怒りへと変わっていきました。
岩田さん「一度も、広島のことを知らない人には出会いませんでした。インドの農村に行ったときも、昔盗賊の隠れ家になっていたメキシコの街に行ったときも、モロッコの列車のなかでも、キューバの港でも、ベトナムの山奥でも、出会った人はみんな当然のように、私の故郷である広島を知っていました」
岩田さん「原爆を落とされたあとも諦めずに、復興してきた広島の人たち。その心意気・生きる術や知恵を共有し、怒りではなく感謝を、悲しみではなく生きる喜びを、不安ではなく希望を、世界の人々に発信することで勇気を与え、笑顔に近づけられるのではないかと感じました」
これまで起こったことを受け入れ、後悔ではなく経験を生かして未来に向けての前向きな動き、想い、方法を発信していける場所として国を越えて、性別を越えて、人種を越えて、世代を超えて、結びつながる場としたいという想いで、音楽祭を続けているそうです。
福岡県星野村から「広島原爆の残り火」を持ち歩くウォーク
今年の2月、岩田さんは火を焚く暮らしをしている友人の家で一週間過ごしました。朝起きてすぐに火を焚いて暖をとり、火で料理をする暮らし。その後、自宅で火を焚く暮らしを始めた岩田さんは、家のなかで火を焚き、煮炊きし、火を見つめながら自分を見つめるなか、今年のお祭りのテーマが「火」であることに気がついたそうです。
岩田さん「火を中心に開催するなら、灯す火は『広島原爆の残り火』以外には考えられませんでした。簡易的な方法での運搬ではなく、持ち歩き、祈りながらその時間の感覚のなかで8月6日の広島平和記念公園を目指すことに意味を感じました」
7月24日、岩田さんは「火を持ち運び祈るウォーク」として、6人の仲間たちと福岡県星野村から広島を目指して歩き始めました。2週間で287キロを歩き、火とともに広島平和記念公園に戻ってくるという行程です。
実は、13日間をともにしてきた火が、爆心地から4.5キロ地点で消えてしまいました。「その瞬間は、誰もその事実を受け入れることができませんでした」と、岩田さんは言います。再び火を焚いて火を囲み、これまでの行程を振り返り、起こったこととその意味を問いかける時間が生まれました。
岩田さん「その日の朝に出会った、『順風のなかで自身を見失い、逆風のなかで自身に出会う』という言葉を思い出しました。火が消えるまでの私たちは、火の巡礼をほぼやり遂げた充実感と、広島まで歩いてこれた達成感に満たされていました。まさに順風のなかにいました。しかし、火が消えた瞬間から突然逆風へと変わったのです。 そして逆風のなかで自分自身の心に灯っていた火の存在に気づき、残り4.5キロを私たちは無言で歩きました。音楽祭は、それぞれの心に灯った火を中心にして開きました」
次のページでは「爆心地HIROSHIMAから、喜びと感謝を発信」を紹介します
爆心地HIROSHIMAから、喜びと感謝を発信
8月6日の広島平和記念公園には、慰霊碑に祈りをささげようとする人たちの長蛇の列が。原爆の子の像にある鐘を鳴らす人、原爆ドームを眺める人、とうろう流しの会場である元安川周辺ではミュージックセレモニーが開催され、多くの人が行き来していました。
「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という願いを込めて1964年に灯された「平和の灯(ともしび)」は、今もなお消される理由がないまま燃え続けていました。
新たな火を灯すために
「ひろしま音~楽まつり」で最後の祈りが終わったあと、そのまま公園内で眠って朝を迎えた人たちが、「心の灯」を囲み、リセットするために火を消しました。目の前に見えていた火は消えましたが、それぞれの心には新たな火が灯ったのではないでしょうか。
「HIROSHIMA」と聞いて、原爆が投下された街や被爆した人々の苦しみだけにフォーカスして笑顔が消えるのではなく、そこから力強く生き抜いてきた広島の生命力や美しさに目を向けて、「すばらしい街だ」と笑顔で言ってもらえるように。「ひろしま音~楽まつり」は来年もまた、みんなで力を合わせてここから世界へ発信していくことでしょう。
動画配信も行われているので、すばらしい歌声や祭りの空気感を味わってみてください。