客員研究者を務める米国ニューヨークのロックフェラー大学に春に行ったおり、新型コロナウィルス感染の勃発に直面した。そのまま都市全体がロックダウンされ、足止めを余儀なくされた。瞬く間にニューヨーク市は世界最悪の感染中心地となり、連日数千人規模の感染者が続出、医療崩壊の瀬戸際に立たされることになった。外出・渡航禁止。美術館、博物館、コンサート会場、劇場など、人が集まる場所はすべて閉鎖、レストラン・バーも軒並み営業休止、公立学校も休校となって、ニューヨークの街はまるで、CG加工されたSF映画の一シーンのように非現実な無人世界となった。
とはいえ、電気・ガス・水道・ネットなどのライフラインと物資の輸送は維持され、食料確保のための最低限の戸外活動は許可された。世界でも同時多発的に感染者が爆発しており、私は、むやみに動かないほうが安全だと判断し、日本に戻ることはとりやめて隔離生活に入った。米国では「自粛」の要請ではなく、法的な強制力・罰則をもった隔離命令である。
日本でも3月から4月にかけて感染者が急増し、全国の学校が休止となった。私の勤務する青山学院大学もすべてオンライン講義となり、教授も学生もどこにいてもいいこととなった。なので、米国に閉じ込められたとはいえ、講義を休校することも、会議を欠席することも1回もなかった。もちろん、普段の教室の対面講義とは違って、教授と学生、学生同士の緊密なコミュニケーションをとることは叶わなかったが、必要な本を読み、考えたり、レスポンスを書いたりというアカデミアとしての機能は維持できたのだった。
以来数か月、この厳しいロックダウン政策と、思いのほか、從容なニューヨーカーたちの行動によって(あれほど着の身着のまま、他人のことなど一切、気にしなかったこの多文化都市の住人たちは、みなきちんとマスクを着用し、ソーシャルディスタンスを保ち、節度ある生活を保ったのだった)、感染者数は徐々に減少しはじめ、7月末から8月初めにかけてかなり少ない数値となり(一日、数十人から100人規模)、収束の兆しが見えてきた。第2波が起こる兆候もない。
厳しい社会的規制と徹底的な検査、そして客観的な数値に基づいた政策が功を奏したということになる。感染者数、陽性者率、病院のベッド占有率など、いくつかのデータと基準を明示したうえで、規制が段階的に緩和されていった。多民族が暮らすこの国で、政策に合理的な客観性を担保するためには、数値主義にならざるをえなかったということだろう。
ニューヨーク市では、誰でも、いつでも、病状の有無にかかわらず、検査を無料で受けることができた。私も、特に健康上の問題は何もなかったが、住んでいるアパート近くの診療所に出かけていって、PCR検査と抗体検査を受けてみた。PCR検査は、鼻の奥に長い綿棒を差し込んで粘膜を採取するスワブ法で得た検体から、RT-PCR法(逆転写・ポリメラーゼ連鎖反応)によって、新型コロナウィルスのRNAの有無を調べる。スワブ法は苦しいとか涙が出るとかくしゃみが止まらなくなると聞いていたので恐れていたが、そんなことはまったくなく、一瞬で終わった。
抗体検査のほうは、腕から血液を採取、血清中の抗ウィルス抗体の有無を調べる。いずれの検査も診療所からサンプルが民間の検査会社に輸送され、結果は再受診する必要なく、ネット経由で知らされる。私はいずれも陰性だった。
ニューヨークと東京間の飛行機も増便され、ニューヨークの状態も落ち着いてきたので、このほどようやく日本に帰国することになった。羽田空港でまた検査を受けたが、今度は唾液の採取による抗原検査だった。唾液は自分で試験管に採取するので、その分、看護師の人手はいらず、検査もスティックキット(妊娠チェッカーや排卵チェッカーと同じ原理・方法)なので結果は迅速に出る。小一時間ほどで呼び出しがあり、ここでも陰性だった。
結果的に、PCR、抗原、抗体検査すべてがネガティブだったことになる。つまり、わたしはニューヨークに数か月いたにもかかわらず、ウィルスRNAも、ウィルス粒子も保有しておらず、ウィルスに感染した履歴もないということだ。
ただし、最後のポイントはちょっと注意を要する。最近の報告では、たとえ新型コロナウィルスに感染し、免疫反応が起こって抗体産生が一時的に高まっても、数か月後には抗体が消えてしまう患者も多数いるという。つまり、今、抗体がないからといってかかっていないとはいえないのだ。
これは実はちょっとやっかいな問題で、もし今後、ワクチンが開発され、それによって抗体産生が促されても、その効果は長続きせず、また同じ病気にかかる可能性もありうるということだ。さらなるデータの蓄積が必要である。