撮影許可が出るまで7年間、準備を進め、施設内の少女たちとの信頼関係を築いたメヘルダード・オスコウイ監督。作品や少女たちについて語ることばの端々から、ドキュメンタリストとしての矜持がのぞいた。
更生施設の少女たち一人ひとりと真っ直ぐに向き合う。
2006年、イランで初めて少年更生施設内にカメラとともに入ったメヘルダード・オスコウイ監督。その後も撮影を続けてきた彼の、更生施設3部作の最終章となるのが、16年のベルリン国際映画祭ジェネレーション部門でアムネスティ国際映画賞を受賞した『少女は夜明けに夢をみる』だ。
犯罪や不幸の背景に何があるのか。施設内の様子や、少女たちと監督、ソーシャルワーカー、仲間同士のやりとりをナレーションや音楽によらずに見せることで、観客自身に考えさせる作品について、 「更生施設3部作は一般公開もテレビ放映もしていません。テレビによって全国に顔を知られ、彼女たちに何かあっては困るし、それは私の望むことではないからです。この作品はこれまで80余りの大学や国内のドキュメンタリー映画祭で上映され、多くの専門家に見てもらっているので、その意味では役目を果たしていると思います」と話すオスコウイ監督。収容された少女たち一人ひとりと向き合って製作された映像には、監督の真摯な姿勢が通底している。
「フランスの哲学者ミシェル・フーコーは『権力者は、犯罪者や貧しい人たちをひとまとめに見ている』と書いています。自分が優位に立ちたい権力者は、彼らを個として見ることをしません。個々の感情に反応していると、彼らを切り捨てられなくなってしまうけれど、グループとして見てしまえば、簡単にその生き方を決めつけることができるのです」
ドキュメンタリー映画は、撮影者と被写体の関係が否応なしに映るものだが、少女たちを撮影対象化することなく、対話に努める監督のスタンスは、この作品の強度を間違いなく上げている。
「映画製作者の中には、自分の作品には興味があっても、撮影対象にはさほど興味がないという人もいます。そういう人は更生施設に入ったら、パッパッと撮影して、施設を後にするかもしれません。ほかの作家のドキュメンタリー作品のナレーションを聞いていると、『それは神の声ですか、誰があなたにそんな権利を与えたのですか』と思うことがあります。たしかに撮影したのは私ですが、この作品は彼女たちと一緒に作ったと、心からそう思っています」
それにしても、カメラの前で衒うことなく、ときに詩的な表現を交えて語る少女たちのことばは、なぜこれほど力強いのだろう。
「彼女たちはまだ若いけれど、想像を超えるような人生経験をしています。私がある少女に『あなたはなぜ、そんなふうに語ることができるのですか』と尋ねると、彼女は『あなたが2年に一度、経験するかしないかということが、私たちには30分に1度起きるんです』と答えました。短い人生の中でそれだけ濃い経験をしている、その深みが彼女たちのことばに表れるのです。深いところから生まれる点では、詩に通じる部分もあります。詩と文学に豊かな歴史があることは、日本とイランの共通点ではないでしょうか」
そう話す監督自身、毎朝、起きると一枚の写真を見て、夜、寝る前には詩を読んでいるそうで、その長年の習慣が、映像に詩的な色合いをもたらしているのだろう。
痛みを共有できる仲間や親代わりのソーシャルワーカーがいる施設は、家族に裏切られた少女たちにとって、セイフティ・ネットとして機能している。だが、スイスの映画祭での上映時に作品を見た、長く国外に住むイランの女性から「映画は施設内の彼女たちの現状を映していないのではないか」と、そう非難されたこともあったとオスコウイ監督はいう。
「そのとき私は、『あなたはなぜイランには心ある人間が一人もいないと思っているんですか。人間は人間に優しくすることができるんです』と応えました。私の望みは作品を通じて少しでもよい変化をもたらし、彼女たちに起きる問題を未然に防ぐことです。メディアの役割は、声を上げられない、聞いてもらえない人たちの声を伝えることで、つねにそのことを忘れてはいけないと思っています」
『少女は夜明けに夢をみる』
波ホールにて公開中、全国順次公開。