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サスティナビリティ

連載 | 標本バカ

弟子

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彼と出会ったのは3年ほど前だから、まだ中学3年生だったときのことだ。

 「わしゃあ、弟子は採らんことにしとる」とかいうのは、中国の老拳法家とか達人のセリフだが、僕は弟子を採ることすらできない身分だ。国立科学博物館の研究者の多くは、大学とは違って学生が所属せず、粛々と研究生活を送っている孤独な研究者たちである。標本作製ということであれば、学生などから修業したいという連絡があり、手ほどきをするのであるが、弟子と呼べるほどそれに専心する人はあまりいない。標本観察に来た大学の学生などには助言をすることはあるが、弟子という感じではなかろう。彼らには所属先に立派な師匠がいる。

 攻玉社高校の沼尾侑亮君は、そんな僕にとって弟子と呼べる数少ない人物かもしれない。彼と出会ったのは3年ほど前だから、まだ中学3年生だったときのことだ。とある研究助成団体が、「非常に変わった研究テーマで応募があったので、指導者としてその子を面倒見てもらえないか」というのである。彼は高校の理科室にある古い標本を、研究などに広く利用できるよう整備するための研究を行うというのだ。

 僕の中学時代は、昆虫採集が佳境にあった時期で、そのころ作った標本は高校時代に採集熱が冷めた頃、虫害により消失してしまった。学校の理科室にはいくつかの標本があったが、当時は、気持ちの悪いものであり、関心をそそるものではなかった。どういう生徒だろうか。非常に興味深い。僕は達人といえるほどの人間ではないので、弟子を採るつもりはない。ただし僕にも戦前の古い標本についての研究経歴はあるし、その生徒に興味をもったことから、指導者ではなく、同じ関心を共有する友人として助言していきたい旨を伝え、攻玉社高校を訪ねた。見れば見事に作製された鳥獣の剥製群や魚類などの液浸標本も多数ある。どうやら昭和初期頃までに採集されたものらしい。いったい誰がどのようにして収集したものか。非常に興味深い。

 この時代、中等教育には「博物学」の授業があり、各学校には博物学教師が教鞭を執っていた。中には熱心に標本を集める人もいた。以前この連載に書いた岸田久吉もその一人で、秋田県の旧制大館中学校で教鞭を執った後に、プロの道へと進み、戦前を代表する動物学者となった。こういった人物的な調査も進めるとおもしろいという助言を与え、国立科学博物館にある文献資料を調査すれば、発見があるからと誘った。数度彼は来館し、古い雑誌や書籍が並ぶ書庫で宝探しの時間を共有した。僕がこの分野で一緒に研究している仲間たちと資料調査に行ったこともあった。学会にも参加して発表しており、立派な研究仲間である。

 そんな彼がメールをくれた。研究助成の期限が来るという。「今後は自分で調査を継続していきたいのだが、これからもご指導いただけないか」とのことだ。かの人気漫画『ONE PIECE』の麦わらのルフィ船長ならこう言うに違いない。「何言ってんだ? 俺たちもう仲間だろ?」。僕には、師弟関係というよりは、共に共通の関心ごとを探究する仲間として人をみる傾向がある。46歳の中年おやじに、中学・高校生の仲間がいてもよいではないか。

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