テレビで、昔ながらのお肉屋さんの老主人についてのドキュメンタリー番組をやっていた。リズミカルに研ぎ棒でナイフを手入れしながら肉の塊をスライスしている。刃物の切れ味は最高、かっこいいなと思った。刃物を研ぐという動作は微妙な角度がものをいうので難しい。僕は動物をばらすのはまあまあだが、刃物の手入れとなるとさほどうまくない。長年やられている職人さんには敵うすべもなく、上達したいと日ごろから思っている。僕のようなヘボ職人は恰好つけたいだけなので、「ナイフ回し」とかもできるようになりたいなどと思う。学生さんなどが解体処理を手伝ってくれるときに、「さあはじめますか」といいながら包丁を回したりできたら恰好いいではないか。ドラマーがスティック回しを披露する感じだ。できれば両手に持った刃物と研ぎ棒でできるとよい。
こんな調子だから、先日標本づくりについての取材を受けた時も、「僕はそんな上手じゃありませんよ。僕より美しい標本を作る人は大勢います」などと回答した。そもそも芸術的な本剥製など作ることはまずないし、仮剥製でも僕より綺麗に作る人は何人もいる。僕は「優・良・可」でいうと「可」でOKと思っている人で、「優」の標本を作る時間があるならば、「可」の標本をたくさん残したほうがよいと割り切っている。ただし僕の「可」は割とレベルが高いという自負はある。その方はそんな僕を「職人と話しているみたいだ」と評してくれた。技はともかく、気持ちは職人的ということであろう。光栄なことである。
日々、皮や骨を加工して働いているわけだから「職人」といわれるのは最高の褒め言葉だ。思い起こせば、僕が学生時代最初に手掛けた研究は染色体の分析で、この実験手技もとかく職人芸的であった。染色体標本を作製するには、動物を捕獲する、骨髄など細胞分裂が盛んな組織を摘出して培養する、細胞をしっかり膨らませた状態で固定する、細胞の固定液をスライドガラス上に落とすことによって表面張力で染色体を広げる、という複雑な工程で行われる。ここで上手に染色体像が観察できるかどうかは、それぞれの処理時間が決め手となる。ところが上手にやれる先生や先輩の条件や技を模倣して、同じように実験してもなかなかうまくいかないものである。これは恐らく実験手順をどれくらいテキパキとやれるか次第で処理時間が変わってしまうからだろう。それ以外にもどれくらいの力で液を攪拌するかとか、実験を繰り返すことによって身に染み付くものがある。これに加えて染色体の形の変化をよりよく知るために、部分的に染め分ける技があって、僕は割とこれが得意な「分染職人」だった。
しかしながら、このような職人芸的な研究手法は、今では流行らないらしい。人の手間は少なく、機械にかければ大量の情報が得られるDNAの解析が実験データの大量生産時代をもたらしている。染色体を観察して形の違いを見出す研究をやる人はほとんどいなくなった。僕はというと天邪鬼な性質で、独自の技を生かして研究や作業を行う、そういう職人であり続けたい。