むやみに慌ただしい感じがする。生活の中にも「間」がない。会話が途切れたときにはスマートフォン、移動中もスマートフォン、カフェでひと息のときもスマートフォン。あらゆる「間」が通信技術によって情報で埋められる。
便利さは癖に、癖は中毒になった。書物はある種の閉じた世界で、読みながら想像に「間」を与え、思考の機会となる。インターネット上の情報は、更新とリンクが無限の広がりをもたらし、「間」を吸い尽くす。メッセージが届いてしまえば、返信するまでの「間」に罪悪感を強いる。
複雑社会化し、意思決定や合意形成がとても難しくなった。もはや深刻な社会問題なのだ。情報が爆発するとともに、考えなければいけないことも爆発的に増えた。
次から次に新しい情報が舞い込み、新しい発見がある。発見は前向きなことに限らず、課題や問題も多分に含まれる。ニュースサイトのどのリンクをどこまで押し続けて、どこでサイトから離れるべきかでさえ、判断を要する。
人間の脳はとんでもなく高性能とはいえ、容量には限界がある。考えることや判断すべきことが過剰になると、余裕がなくなる。脳の余裕のなさは、心理的余裕をなくすことでもある。「間」のなき世界は、ゆとりを奪われて自己中心的に生きる人だらけの住み処になりかねない。
目の前の時代は先人が生み残したものによって生成され、いまを生きるわれわれは、次の時代に何を残すべきかを考えながら生きる責務がある。同じ時代を共にする者同士が互恵関係、思いやりの意識を持つゆとりがないのに、次の時代に思いを馳せることなどできるわけがない。
幸いなことに、そんなタイミングで人工知能が育っている。功罪の全容を明らかにしない人工知能であっても、人間のゆとりを取り戻す救世主の資格を持っていることは間違いない。考えることが得意な人工知能に一定の意思決定を委ねることで、人間が意思決定することを減らす。何をどのように委ねるかについては熟慮と検証を重ねる必要がある。その試行錯誤まで委ねてしまった場合、人間があまりにも無力化する恐れがあるので、人間として踏ん張るべき部分に関する指針は持っておきたい。
脳にゆとりを得た人間は、本当に考えるべきこと、やりたいことに時間を割けるようになる。趣味、旅行、気の向く仕事。ほとんどの時間をやりたいことで過ごせる生き方はさぞ幸せだろう。人工知能さまさまである。
ドイツを代表する学術研究機関の『マックス・プランク学術振興協会』が運営する研究所(『マックス・プランク研究所』)で「人間の脳はどんなときに幸せを感じるか」についての研究が行われ、「苦しんでいる人に寄り添って支援するとき」だということが明らかにされている。脳が人を支えることにとりわけ幸せを感じるようにできているからこそ、人類はここまで生き残り、繁栄を続けられたのかもしれない。
やりたいことに時間を割けるようになった人間が何をすべきか。「それは個々人の自由だ」と言われてしまえばそれまでである。しかし脳は求めているのではないだろうか。多くの時間を人のために費やし、究極の幸福感を得ることを。自己のためにあらゆる力学を働かせて幸せになろうとすれば本当の力学は働かず、他者のために力学を働かせて幸せにしようとすれば本当の力学が働き自己も幸せになれる。きれいごとではなく、“脳ごと”なのである。対象は未来を生きる人であってもよい。それによって未来を存在させられると思うとき、過去の人からの恩恵として“いま”が存在することを意識する。
テクノロジーに奪われた「間」は、テクノロジーによって取り戻す。再生した自分のゆとりは、脳が求めるところに従ってみる。本当の幸福は、そこで姿を露わにするはずだから。