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多様性

連載 | 福岡伸一の生命浮遊

ウォルターの博物館

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 大財閥・ロスチャイルド家の直系の一員でありながら、幼少の頃から博物学的興味に目覚め、その生涯と多大な資金を貴重な生物標本の蒐集に蕩尽したウォルター・ロスチャイルド。彼の膨大なコレクションに触れることのできる場所がある。

 それはロンドンから北西の方向に小一時間ほど電車に揺られたトリングという小さな街にある。ロスチャイルド家はここに広大な土地と屋敷を有していた。ウォルターもここで育った。というよりもこの屋敷の内側だけで育った。自他共に認める変人だった彼は、学校に馴染めず、登校拒否児となり、両親は家庭教師をつけた。ウォルターが関心を示すものならなんでも応援した。ウォルターが唯一関心を示したものは博物学的標本蒐集・剥製製作だったが、唯一という言い方は当たらないかもしれない。その範囲は広大すぎたからである。

 蝶、蛾、甲虫など昆虫類はもちろん、鳥類、哺乳類も手当たり次第蒐集した。世界中の地域に採集人を派遣し、専用の標本士、剥製師を雇った。成人になったお祝いに、両親はウォルターに特別なプレゼントをした。敷地内に、ウォルター専用の“博物館”を建設したのだ。

 それは切り妻屋根が連なるレンガ造りの瀟洒なつくりだった。ここにウォルターは何十万点にも及ぶ自分のコレクションをこれ見よがしに並べた。完全なるプライベート・ミュージアム。

 ウォルターはそれだけでは飽きたらず、敷地内にガラパゴス諸島から連れてきたゾウガメを放ち、その上に乗っかってみせた。あるいはアフリカから取り寄せたシマウマに馬車を引かせた。そんな写真が今も残っている。結局、ウォルターは、ロスチャイルド本来の家業、すなわち金融業や銀行業にはまったく見向きもしなかった。両親や家族、親族たちも彼に生業を継がせることは諦めた。おそらくウォルターはお金や物欲にまみれた世俗から逃れるために、あえて、博物学の世界にー沈黙したまま硬質の輝きを放つ宝石のような生き物たちのの世界にー没入していったのだろう。

 蒐集の熱は病的なまでにますます高まる一方だった。実は、そのこと自体にも莫大なお金と物欲が費やされていたのだが、無限に近いロスチャイルド家の財が、後に、公共的な自然史研究に多大なる貢献をなすことになったのは、ある意味で、奇妙な富の再分配方法であったともいえる。ウォルターの個人博物館は、彼の死後、『大英自然史博物館』の一部に寄託されることになったからである。むしろウォルターの蒐集物が、大英自然史博物館のコレクションの基礎をつくった、というほうが正しい。

 同じ種の生物標本が何体も何体も集められていることは(日本の私たち虫オタクのあいだでは、標本箱の縦横に整然と等間隔で同じ虫の標本が並べられていることを、自嘲の意味を込めて“田植え”と呼んでいるのだが)、一見、無駄のように思える。しかし虫を留めたピンに正確な記録ラベルがつけられていさえすれば(そこには虫の学名だけでなく、採集の年月日、場所、採集者などの情報が列記される)、そこに自然史的な価値が生じる。

 後の世の研究者の誰かが、虫に含まれる微量汚染物質の分布を分析することによって環境悪化の状況を明らかにするかもしれない。鳥の卵の殻の厚みの経年変化を調べることによって、鳥たちが絶滅に追いやられていった経緯をくことができるかもしれない。DNAを解読することによって「進化の系統樹」を新たに書きなおすことに成功するかもしれない。

 すべては、ある時期にある場所で採集された生物サンプルの実物が、記録とともにこと細かく残されていること、つまり博物学的な網羅性が、重要な鍵を握ることになる。この意味で、ウォルター・ロスチャイルドのコンプリートへの執着と彼の財力は大いに人類の知的達成に貢献したといえるのである。

 ウォルターの博物館は、大英自然史博物館の一部になるよりもずっと以前から、すでに一般公開されていた。蒐集家の常として、自分のコレクションは自分だけで独り占めしておきたいと願う一方で、みんなに自慢したいと思うものだ。そして20世紀初頭、博物学的な関心は普通の市民をも巻き込んでいった。人々はこぞって、未知の場所に生息する色とりどりの虫や鳥たちを見たがった。トリングのこの奇妙すぎる博物館にみんなが押し寄せた。

 ヒュー・ロフティングはまだ少年だったが、きっとその噂を聞きつけて、ここを訪問し、目を見張ったに違いない。ロフティングはトリングからほど近い町・メイドンヘッドに生まれ育った。いまだに私たちを魅了する児童文学の古典「ドリトル先生のシリーズ」を生み出した作家である。

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