「デジタルx資本」で中小企業再建を手掛ける「くじらキャピタル」代表の竹内が日本全国の事業者を訪ね、地方創生や企業活動の最前線で奮闘されている方々の姿、再成長に向けた勇気ある挑戦、デジタル活用の実態などに迫ります。
3月以来、当連載では新型コロナ肺炎拡大阻止の観点から地方取材を中止していましたが、5月25日の首都圏緊急事態宣言の解除を受け、原則リモートでの取材活動を再開しました。
今回は連載再開第2弾として、天山酒造株式会社の七田謙介(しちだ けんすけ)社長に、上京中の合間を縫ってお話を伺いました。(佐賀県小城市は訪問していません。)前回に引き続き、コロナ禍の苦境に立たされる酒造メーカーの現状に迫ります。
佐賀県指折りの日本酒造メーカー天山酒造様は、ANAのファーストクラス・ビジネスクラスに採用された純米吟醸「天山」や、海外の日本酒コンクールで多数の受賞歴を誇る「七田」の醸造元として、国内のみならず海外でも知られた酒蔵です。
2009年の社長就任以来、積極的に海外輸出に取り組んできた七田謙介社長の原点と、経営の心柱として掲げる「不易流行」の真意に迫ります。
佐賀県小城市・祇園川沿いの水車業からスタート
竹内 本日はよろしくお願いします。九州では先週来(注:取材日は2020年7月10日)、線状降水帯の発生で豪雨被害が続いていますが、御社は大丈夫でしょうか?昨年8月にも記録的な大雨で、酒蔵が一部浸水したと聞いています。
七田社長 今年は今のところ大きな被害は特にありません。ただ、父から会社引き継いで10年くらい経つのですが、コロナを含め、ここまで色々なことが重なるという経験はなく、まさに逆境の中の舵取りという状況です。
竹内 豪雨被害の前から、コロナの影響もあった訳ですよね。
七田社長 3月くらいから具体的に売上に影響が出始め、4月5月は大きく数字を落としました。売上でいうと昨年の半分くらいの水準に激減しています。
竹内 やはり飲食店様の影響が大きいのでしょうか?
七田社長 そうですね。日本酒の需要としては、ご家庭での消費と飲食店さんでの消費と2つある訳ですが、我々のような地方の酒蔵、特に中小の酒蔵は、飲食店さんでの消費に頼っている部分が非常に大きく、今回はそれが顕著に数字で表れています。
日本酒メーカーでも全てのメーカーがこんなに悪い訳ではなく、例えばスーパーとか量販店さんで売っているパック酒を造っている大手さんは、家飲み需要もあって、そんなに数字を落としていないんですね。
一方、我々地方の酒蔵というのは、地元の飲食業もそうですが、首都圏の居酒屋さんや飲食店さんに大分お世話になっておりましたので、その影響がモロに出ています。
竹内 輸出はどうですか?
七田社長 輸出も全くですね。3月くらいまで出ていましたけれど、4月に入った途端ぱたりと止まりました。ただ、中国や韓国、台湾、香港など比較的感染が落ち着いてきている東アジア各国については、輸出も再開し始めています。
アメリカ、ヨーロッパは、もう少し時間かかるかもしれないですけれど。
竹内 天山酒造様の歴史についてお話しを聞かせて下さい。元々、佐賀県小城市で水車業として創業され、製粉業や製麺業を営まれていたんですよね。
七田社長 そうです。川のそばにあるので元々は川の恩恵を受けながら水車業という商いをさせてもらっていましたが、さっきの水害の話じゃないですけれど、時には川が牙を剥くこともあります。
江戸時代は祇園川周辺で水車業を営んでいたところが多く、うちもまさにその1つでした。徐々に酒蔵さんのお米を精米するようになり、また佐賀は二毛作が多く、お米を作った裏で麦の栽培をするのですが、その麦を製粉することがきっかけで製麺業も営んでいました。
明治に入って近所の酒蔵さんが廃業することになり、なぜか小さい村のコミュニティで「七田家がその跡を継いでやるらしい」という噂が先行し、その通りにやらざるを得なかったという話は伝え聞いています。
竹内 廃業される蔵を継がれて、その後は順調に推移されたんですか?
七田社長 そこからは製麺業と酒造業と並行して営んでいましたが、昭和30年代後半に製麺業はやめ、その後は酒造り一本で来ています。
竹内 七田社長が会社を継がれたのが約10年前の2009年ということですが、小さい頃からこの蔵を継ぐことを考えていらっしゃったのですか?
七田社長 長男でもあり、そのように育てられた部分もありましたし、また周りの期待する声もあったので、いずれはやらなきゃいけないんだろうなとは感じていました。
とは言え大学時代の自分は異業種に就職したい気持ちもあり、他の業種を中心に就職活動をしていました。その時に母親から電話があり、父親に病気の疑いがあるので、すぐにどうこうという訳じゃないけれど実家に戻ることを考えてほしい、と言われたのです。父親は今でもぴんぴんしているんですけれど(笑)。
すったもんだはあったのですが、大学は文系の専攻だったので、実家に戻るのであれば酒造りの勉強もしなければいけないということで、東京農業大学の醸造学科に2年間の短期コースがあったので、そこに2年間通いました。その後、同業の酒蔵で2年間酒造りを勉強させてもらい、結局異業種に行くことなく戻ってきました。
竹内 お父様、お元気で良かったですね、社長が継がれた時のご実家の状況は、どうだったのでしょうか?
マンハッタン、イーストビレッジでの衝撃から始まった海外挑戦
七田社長 私が帰ってきてからの10年間は、売上が毎年少しずつ減っていくような状況でした。
背景としては、趣味嗜好の多様化でしょうか。赤ワインブームが最初に来て、それこそ寿司だろうが何だろうが、赤ワインを合わせていた時期がありましたよね。その後は焼酎ブームです。
この時は、色々なプロモーションを仕掛けましたが、なかなか結果に結びつかないという、モヤモヤした時期が10年間続きました。世の中的にも、リストラ、リストラという時代であまりポジティブな話題もない時期でした。
竹内 そのような中、2009年に社長に就任されます。最初にやろうとされたのは、どのようなことだったのでしょうか?
七田社長 最初に取り組んだのは輸出です。
海外へのチャレンジについては、実家に戻ってきた頃に「日本酒輸出協会」という任意団体が立ち上がり、参加したのが最初です。まだその頃は日本の酒蔵が海外に輸出するなんて夢物語みたいな時代だったのですが、1社ではできないけれど何蔵かでまとまってやれば可能性があるのでは、ということで、20蔵くらいが集まって、まずはアメリカに現地視察に行きました。
その時に、ニューヨークはマンハッタン、イーストビレッジの地下一階にあった日本酒バーの先駆け的なお店、今は「Sake Bar Decibel」という店名ですが、そこに立ち寄りました。コンクリート打ちっ放しの壁に赤提灯がかかっていて、ハードロックがガンガンかかっているという不思議な雰囲気のお店なのですが、そこで大柄なアフリカ系の方が、小さなお猪で日本酒を飲んでいる。
ビビッと、鳥肌が立ちました。自分は英語が話せないのでコミュニケーションはうまく取れないけれど、なんかすごく楽しそうに日本酒飲んでいるなと思って。
その時の体験から、「今すぐ商品の売上にはならないかもしれないけれど、いつか間違いなく、アメリカ人が当たり前のように日本酒を楽しむ時代が来る!」という確信を得ました。
竹内 非常にドラマチックな原体験ですね。輸出に力を入れ始めてからは、順調に伸びていったのでしょうか?
七田社長 いえ、まだ海外での市場が立ち上がっておらず、商社さんにお預けすればどんどん売れていくとは全く思っていなかったので、一緒に市場を開拓すべく現地を回っていました。もちろん、そんなにしょっちゅう海外に行ける訳ではないので、たまに、という感じではありましたが、サンプルを持って、日本食レストランやお寿司屋さんなどを1日十数件、短期集中で回って営業していました。
その時の反応は結構冷たくて、「こんなところに売りに来ないで日本で売っていればいいんだよ」とか「日本人も知らないような佐賀の銘柄をアメリカ人が飲むわけないでしょ」と言われました。
竹内 北米では、現地の日系商社が取り扱う菊正宗などのナショナルブランドが強いですもんね。
七田社長 そうですね。あとは新潟県・朝日酒造さんの「久保田」などの名前の通っているブランドだけでいいんだよ、みたいなことも言われましたが、「うちのお酒はこういう良さあるんですよ」とか、蔵の背景や歴史などを説明しながら少しずつ開拓していきました。
名の通ったニューヨークのお店で採用され始めると、周りの飲食店の反応も変わり始め、置いてくれるお店が増え、それを見た周りの飲食店の反応がまた変わり・・・というサイクルで少しずつ流れが変わりました。
竹内 最初に大きな契約をいただいた時に、評価されたポイントは何だったのでしょう?
七田社長 やはり、料理との相性を評価していただいたのだと思います。
特にうちの「七田」いうお酒は、食事と一緒に楽しんでもらう「食中酒」、食事に寄り添うお酒というコンセプトで造っていたので、そのお店の料理と相性が良いという評価をいただけたのだと思います。
最初の頃は、吟醸や純米などをご存知ないお客様が多かったので、セミナーなどを重ねて情報提供を続けることで、少しずつ吟醸という言葉がアメリカ人にも浸透していきました。
また、元々アメリカでは日系大手メーカーが現地生産した廉価な「テーブル日本酒」が流通していて、燗にして飲む珍しさが気に入られていた部分があったのだと思いますが、そこに我々がフルーティーな吟醸香を持つ日本酒を持ってきて、「ちょっと冷やして飲んで下さい」と推奨したことも一つのトレンドになりました。
竹内 その後はアジア圏にも販路を広げられたのですか?
七田社長 そうですね。アメリカと並んで、香港は最初から取り組んでいました。この2つが今でも当社売上の上位を占めていて、そこから韓国や台湾、中国本土、ヨーロッパなどにも徐々に輸出量を増やしていきました。
世界での日本酒の飲まれ方と、スパークリングへの取り組み
竹内 海外でも、地域によって日本酒に対する好みが違いますか?
七田社長 よく聞かれるんですけれど、まずうちのお酒に関して言えば、海外用に中身を変えるということは一切ありません。もちろんラベルの表示等については、その国の規制に合わせて変更することもありますが、中身については全く変えていないですね。
中身についても、そんなに極端に日本人と好みが違うかと言うと、そうでもないかなと私は思います。ただ、アメリカの方は、デリケートな味の違いというより、主張がはっきりしているお酒が好きかもしれません。このお酒はフルーティーさが売りだよとか、スパークリングだよとか、個性の際立ったお酒が好きで、後はにごり酒も大好きですね。
竹内 やはりアメリカではキャラ立ちが大事なのですね。
七田社長 分かりやすい方が、伝わりやすいですよね。
アジアでは、結構日本の情報を見ています。香港の人などは日本に来るのが大好きだし、日本で美味しいお店行って美味しいもの食べて、ということをコロナ前はすごくやってらっしゃった。韓国の方もそうですけれど、日本の情報をかなり持っていて、日本で売れている銘柄などをよく勉強されているので、割と国内と近い感覚かもしれません。
中国本土に関しては、その店で一番高いお酒を自分のテーブルに置きたい、というご希望が多いので、少し特殊かもしれませんね。
ヨーロッパに関しては、やはりワイン文化の土壌がしっかり存在しています。ペアリングやマリアージュをすごく意識していて、どのお酒がどういう料理と合うという点を大事にされるので、フルーティーなタイプの純米吟醸も好まれるかもしれませんが、もう少し余韻の長い、奥行きのある生酛造りなどを好まれる傾向にありますね。
ですから我々としては、特にヨーロッパではワインを扱っているソムリエの方々に日本酒のことを勉強してもらおうと取り組んでいます。レストランの現場で、普段ワイン飲まれている方に対して、「今日はこういう日本酒が入ったので、たまには日本酒と合わせてみませんか?」と勧めてくれる人達が増えないと、なかなか難しいだろうと思いますので。
竹内 以前、土佐酒造の松本社長(その記事のリンク)にお話を伺った時も似たようなことを仰っていました。
先ほど、アメリではスパークリングの日本酒が人気と仰っていましたが、天山酒造様は「一般社団法人awa酒協会」の設立メンバーの1社でもありますよね。スパークリング日本酒を作ろうというお考えは、どのように生まれのでしょうか?
七田社長 元々、自分がスパークリングワインやシャンパンなどの発泡系アルコール飲料が好きだったということもありますが、やはり1杯目に「とりあえずビール」とならず、乾杯できる日本酒を作りたいという思いがスタートでした。
最初は白色で少し濁っているタイプのスパークリングを作りまして、これが今たぶん国内市場的に圧倒的に多いタイプだと思うんですけれど、それをずっと10年くらいやっていて、その後にやっぱりシャンパンと同じような製法でクリアなスパークリングを作りたいと思い、うちでもずっと研究をしていたんです。
そんな中、「水芭蕉」というブランドを展開されている群馬県の永井酒造さんが瓶内二次発酵のクリアなタイプのスパークリング日本酒「MIZUBASHO PURE」を先行して商品化されました。その永井酒造の永井(則吉)さんが「1社でやる泡酒のブランディングには限界があるから、プロダクトや技術の提供をするので、皆で作っていこう!」と有志を募っていたので、参加させてもらうことになったのです。
以降、シャンパーニュのメゾンに一緒に勉強しに行ったり、国内で発表会したり、色々なことを協会の皆さんと取り組んできました。
awa酒協会の最初の目標は、東京オリンピックで世界中から集まってくる皆さんにスパークリング清酒で乾杯してもらおうということで、それを応援してくれる議員連盟なども作っていただいたのですが、コロナの影響でストップしてしまったのは残念ですね。
「不易流行」と佐賀県産米へのこだわり
竹内 天山酒造様は、スパークリング日本酒に留まらず、若手社員が作った若者向けの新しい純米吟醸酒「re:echo(リ・エコー)」など、新しいことに積極的に取り組まれている酒蔵という印象です。そのような姿勢は、どこから生まれてくるのでしょう?
七田社長 私が会社経営的において大事にしているのが「不易流行」という言葉です。松尾芭蕉が提唱した俳諧の言葉だと思うのですが、変えてはいけないルールとしての「不易」と、新しい表現としての「流行」。
一見矛盾する言葉ですが、これを天山酒造に置き換えてみると、「不易」というのは創業以来大事にしてきた天山の水や佐賀のお米といった地元の自然の恵みを活かして美味しいものを作っていくことで、これはずっと続けていかなくてはいけません。
一方で消費者のライフスタイルでいうと、創業当初の明治の消費者と現代の消費者は全く違う訳です。もちろん今般のコロナ禍でもだいぶ変わるでしょう。時代と共に変わっていく消費行動や生活様式については、失敗を恐れずに新しいチャレンジをしていく必要があり、変えていくものと変えてはいけないことのバランスを取って酒造りに臨もう、というのが当社の考え方です。
これは社内でも共有し、若い杜氏たちの酒造りにも活かしてもらっています。
竹内 「変えてはいけないもの」という点で言うと、御社で使われている酒米は佐賀のお米が中心ですよね。
七田社長 そうです。「山田錦」と県オリジナルの「さがの華」。また一般米の酒米として「レイホウ」。佐賀県産のこの3つの品種をメインで使っています。うちが使用している酒米の90%は地元佐賀県産です。
幸いにして佐賀はコメどころですし、うちの祖父が農業に力を入れており、一時期は酒米の栽培や農業の技術者を育てる学校までやっていたようです。戦後日本の復興には農業を強くしなければならない、そのためには農業教育が必要という言葉をよく口にしており、経営者というより学者然とした人でした。
先ほどワインの話をしましたけれど、我々も海外に行ってワインの勉強をすると、やはりテロワールという言葉が出てきます。ワイナリーの目の前がブドウ畑という絵はすごく分かりやすくて、だから我々も大きな土地でそういったものを表現できるようにしたいと思ったのですが、ワインと日本酒のテロワールが同じかというと、多分違うと思うんです。
ワインは原料が葡萄だし、収穫してすぐに加工する必要がありますが、お米は穀物だから保管や移動ができるし、他所から買って運んでくることもできます。そこは葡萄と違うところなので、全てワインのテロワールの概念が当てはまるとは思いませんが、それでも地元のお米を使って表現したいという思いはあります。
竹内 海外で売る時には、特にそのストーリーが重要ですよね。テロワールという話で言うと佐賀県にも「原産地呼称管理制度」ができましたが、これもプラスに働いていますか?
七田社長 そう思います。元々、佐賀の地元の酒って普通酒ばかりだったんです。お祭りや家族が集まる飲み会に行くと、普通酒が一升瓶でどん!と置かれる感じだったのですが、原産地呼称管理制度ができて、酒瓶に認定シールが貼られることになったんです。
これに認定されるためには佐賀県産原料を100%使った純米酒じゃないとダメで、要は醸造アルコール添加をしたものは認めらない。時間はかかったかもしれませんが、「せっかくお酒を頼むのなら、そっちを頼もうか」という具合に、少しずつ佐賀の消費者の間でも浸透していったと思います。
また、時代背景的にも、量を飲んで酔うというスタイルから美味しいものを少しずつゆっくり楽しむというスタイルに佐賀の人達も変わり、そこに純米酒、純米大吟醸の消費が伸びるタイミングが合わさり、原産地呼称管理制度もはまったのかもしれません。
竹内 デジタルへの取り組みについてお聞かせ下さい。オンライン・ショップをやられていますが、あれは社長のご発案ですか?
七田社長 これがなかなか難しいところで・・・。今のサイトは、今回のコロナ禍を受け、うちのスタッフが急遽手作りで作ったものです。先ほど申し上げた通り、うちの売上が今回コロナでこれだけ減ったのは、飲食店さんにお世話になることが多く、家飲みに対応していなかったからではという反省がありました。実際、「どこに行けばうちのお酒を買えるのか」という声もありましたので。
そこで、うちと取引のある酒屋さんのオンライン・ショップを紹介しつつも、こういう環境下だしやはり自社サイトでも買えるようにした方がいいね、ということで立ち上げたものです。
竹内: 我々のようにデジタルを生業(なりわい)にしている人間からすると、酒蔵はD2C(Direct to Consumer = ストーリー性のある商品を直接消費者に販売するビジネスモデル)に一番向いている業態の一つだと思っています。
蔵の歴史、作りたいお酒、天山の水、佐賀のコメといったストーリーをきちんと消費者に届け、その一連の醸造過程から見て頂き、SNSで共感してもらい、商品を直接買って頂く、という形ができれば最高ですね。
酒造りの方でデジタルを活用されていることはありますか?
七田社長 うちの杜氏が割と技術面に明るいので、醸造工程におけるAIを使った管理システムなどは今、県の関連機関と連携して取り組んでいます。
情報やデータは非常に大事ですよね。ただやはり、人間の感性というか、五感で感じる要素が少なからずあると思うんです。データだけでも酒は作れるのかもしれないですが、最終的に品質の良し悪しを判断するのは人間の舌であり、鼻。
ここが私の一番の仕事で、「この商品を天山酒造のお酒として世に出して良いかどうか」というジャッジができないといけないので、そこだけはデータや械センサーではなく、人間の感覚が必要になると思います。
今後も、先ほど申し上げた「不易流行」の考えを実践していけたらと思っています。
竹内 本日はありがとうございました!