「デジタルx資本」で中小企業再建を手掛ける「くじらキャピタル」代表の竹内が日本全国の事業者を訪ね、地方創生や企業活動の最前線で奮闘されている方々の姿、再成長に向けた勇気ある挑戦、デジタル活用の実態などに迫ります。
今年3月以来、当連載では地方取材を中止し原則リモートで取材活動を行っていましたが、今回久しぶりに現地取材を再開。千葉県館山市を訪問しました。(本記事の取材日は2020年11月18日です。)
今回取材したのは、千葉県館山市で「原状復帰義務なし」のユニークな賃貸住宅「ミナトバラックス」や、診療所をリノベーションしたホステル「tu.ne.Hostel(ツネホステル)」を経営する漆原秀(うるしばら しげる)さんです。
リノベーションを通じた館山の町づくりに取り組む漆原さんは、現在開業準備中の新しいシェアハウスの1階に、戦争関連の貴重な手記や書籍を所蔵する「永遠の図書室」というコミュニティスペースも運営しています。
同施設の実現に尽力された、藤本真佐(ふじもと しんすけ)さんにも併せてお話をお伺いしました。
お二人は日本のデジタル黎明期を駆け抜けた同志でもあり、現在は共に千葉県在住。デジタルx地方創生という本来の観点に加え、リノベーションや戦争というキーワードまで飛び出し、ちょっと異色の回となりました。
前後編に分けてお届けします。
日本のデジタル黎明期を走り抜けた青春
竹内 本日はよろしくお願いします。まずは漆原さんのご経歴をお聞かせ頂けますか?
漆原さん 僕自身は転勤族の子供として生まれ、埼玉で長く暮らしていました。元々、千葉県に縁があった訳ではないんです。
ここにいる藤本さんと、大学こそ違うのですが、大学時代に一緒に大学生サークルを支援する活動をしていて、その後藤本さんがその活動を事業化して有限会社を設立した時に、僕も取締役の1人として名前を連ねて以来のお付き合いです。
卒業後も何年かその会社にいたんですが、ある時突然、藤本さんが「これからはマルチメディアの時代だ!」と言い出し、デジタルコンテンツの人材養成学校である「デジタルハリウッド」の創業に関わることになったので、僕も関連会社経由でデジタルハリウッドに移り、日本のIT黎明期をそこで過ごしました。
その後、2004年に34歳でWebマーケティングの会社を自ら設立し、最初は自宅兼事務所から始めたのですが、ネットバブルの波にも乗り3年くらいは順調でした。その後、とある同業の会社と合併し、共同代表という形で経営していたのですが、直後にリーマンショックが発生。
そのような状況で代表者2名でやる必要もないよね、と自らをリストラして会社を離れ、再度サラリーマンに戻りました。
竹内 やはりリーマンショックですか・・・。リーマン・ブラザーズ出身者として申し訳ない気持ちで一杯です。
漆原さん その後、とある大企業グループの合弁子会社で、8年くらい役員を務めていたのですが、途中でメンタル面でまいってしまい、「もう一度雇われない生き方をしなければヤバイな」と思い始めました。
その時に「サラリーマンをしながらできる事業ってなんだろう?」と考え、たどり着いた答えが不動産投資です。サラリーマンの傍ら、数件の不動産投資を始めたのが40歳の頃でした。
竹内 最初の投資不動産は、館山ではなかったのですよね?
漆原さん 館山ではないですね。埼玉県の八潮や千葉の船橋などです。
ネットバブルに乗じて起業した頃、事業面はうまくいき収入的にも恵まれていましたが、大きなストレスを抱えており、海辺に別荘でも建てたいなと思っていました。僕が育ったのが奈良や埼玉などの海なし県だったので、海の町への憧れがあったのです。
東京から2時間で通える距離で同心円を描くと、太平洋側から外房、内房、三浦半島、鎌倉くらいまで入ります。それぞれ一通り訪問したのですが、一番しっくりきたのが内房の館山でした。自分はサーフィンをやる訳でもないので、外房の荒々しい海よりは富士山や夕日が見える内房の景色が気に入りました。
また、自分が行くからには何か新しいことに取り組みたいという気持ちがあり、湘南や葉山、鎌倉だとすでに町として完成されている気がして、未開拓の要素が残る館山に惹かれました。
その頃、母が病気になり、お医者さんから「空気と魚のおいしいところがいいよ」という話があり、実家を売ったお金を元手に、賃貸アパートと居住用の戸建てを建てたのが館山との関わりの始まりです。先に両親が移り住み、「自分も後から追いかけるから」という形でした。
コミュニティリーダーとしての大家さんへ
漆原さん 不動産投資をすると、一般に不労所得と言われますが、自らは汗をかかなくとも毎月お家賃が振り込まれる訳です。銀行への返済額を支払うと残りが粗利になりますが、時々管理のため物件を見に行くと、自分の物件の住人さんのはずなのに、お会いしても顔と名前が一致しない。
毎月振込をしてくれる人の顔が分からないという関係性がすごく気持ち悪くて、「お金だけのための不動産投資は、自分には向かないな」とモヤモヤしていた時、青木純さんという方が書かれた本を読み、「大家自身がコミュニティのリーダーとなって賃貸住宅を運営する」という考え方に出会いました。
そんな大家像があるんだ、それを目指してみたいな、と思っていた時に、そう言えば館山に建てた賃貸用アパートと戸建ての裏に公務員宿舎があったな、と思い出しました。その時は閉鎖されていましたが、間もなく民間放出されるという噂を聞き、売りに出るのを狙っていました。2016年の夏、僕が46歳の時ですね。
思惑通りに落札できて、初めは遠隔でリノベーションをやろうと思っていたんですが、だんだん入居希望者の顔が見えてきた時に、「もうこれは腰据えて、自ら館山に移住しないとダメだな」と。
子供も小学2年生でまだ小さく、自然環境のいいところで育てたいという気持ちもあり、移住してきたのが丁度4年前です。
竹内 あっさり落札に至ったように聞こえますが、これだけの大きさですし、それなりの金額ですよね。部屋数も多いですし、失礼ながら館山でこれだけの規模の物件をリノベートして居住者が集まるか、不安はなかったのでしょうか?
漆原さん そうですね、それまでに投資してきた埼玉の八潮や千葉の船橋の不動産と比べると金額的にも割安でしたし、新築・中古を問わず戸建て・アパート・マンションを一通り手掛けており、どうやれば部屋が埋まるのか多少知見があったので、そんなに不安はなかったですね。
リノベーション工事中は、僕が1人で往復生活をして工事を進めていたんですけれど、徐々に問い合わせや見学者が増えて手応えを感じたこともあり、「移住しよう!」と決めたら、3週間後には移住していました。
竹内 すごいスピードです(笑)。奥様やお子様は何も仰らなかったのですか?
漆原さん 何も言わなかったですね。その時点では僕はまだ東京の会社に籍が残っていて、週4日は東京通い、というスタートでした。その後、1年ごとに週3日、週2日、週1日と減らし、その後休職になり、いよいよ今年の夏前に完全に退職しました。
その会社はありがたいことに「薄くてもいいから、関わってくれ」と言ってくれていたのですが、さすがに申し訳ない気持ちもありケジメをつけました。
竹内 ミナトバラックスは順調にいき、その次がこの「tu.ne.Hostel(ツネホステル)」ですよね。
漆原さん ミナトバラックスを始める時は、2つ目、3つ目をやるとはあまり思っていなくて、とにかく家族や住人さんと楽しく、こだわった暮らしができたらいいな、くらいの気持ちでした。
オープンして半年とか1年くらい、夏祭りや餅つき、歓迎会やクリスマスパーティを通じて住人さんと日々の交流が生まれる中で、コミュニティのある暮らしってこんなに楽しいんだ、幸せなんだ、というのを体感しました。
館山に生まれ育ち、地元のお祭りを経験してきたような地元っ子であれば普通の感覚なのかもしれませんが、転勤族の子供だった僕は、生活まるごとコミュニティに属した暮らしを体験したことがなかったので、新鮮で楽しく、これをもう少し町全体に広げたいなという思いが生まれました。
また、当時子供が小学3年生になっていましたけれど、シャッター商店街になっている館山の町を日々通りながら、「未来は明るいね」とは胸を張って言えないですよね。さらに、当時はまだ週3日ほど東京に通っていましたので、なるべく収入的にも東京への依存を減らしたいと思い、この土地での事業基盤を作るべく考え出したのがこの「tu.ne.Hostel(ツネホステル)」です。
元・診療所という異色のホステル
竹内 元々診療所だったということですが、この物件はどういう経緯で巡り合ったのですか?
漆原さん 普通に地元の不動産屋さんのホームページで見つけました。割と不動産物件を見るのが好きなので、定期的に色々な不動産サイトを巡回しているんですけど、その中で駅にも近く、受付があり、部屋数や規模感があるこちらの物件を見つけ、ゲストハウスにぴったりだと思い連絡しました。
竹内 不動産屋さんの反応はどうでしたか?診療所をゲストハウスにするというアイディアに驚かれたのでは?
漆原さん いいですねともやめろとも言われなかったですね。変わった人だな、という感じでしょうか。
普通に見れば館山は衰退傾向のエリアですし、月15万円の家賃を払って賃貸物件で事業をするならともかく、1000万円超えの物件を買ってまで商売をやろうという個人事業者はそういないですよね。
館山って、アクアラインができてから交通の便が良くなったのですが、ここでいう交通というのは車なんです。車を持っている人は海やゴルフ場や宿などの目的に行ってそのまま帰ることができるんですけど、車のない人がふらりと一人旅ができる交通機関や宿が非常に少ないので、駅前に1軒くらいそんな宿があっても成り立つんじゃないかなと。
他は、古い旅館かビジネスホテルしかないので。
竹内 オープンしたのは昨年2019年の6月ですよね。お客様の反応はどうでしたか?
漆原さん 6月にBooking.comや楽天トラベルなどのOTA(Online Travel Agent)に掲載し、7月後半からは順調に予約が伸びていきました。7月、8月は館山の観光シーズンでもあり大盛況。また、それまで館山はあまり外国人観光客が来る町ではなかったので正直期待していなかったんですけど、全体の3割くらいが外国人のゲストになり、かなりの手応えを感じました。
外国人ゲストは、数でいうと一番多いのは中国本土の方でしたが、次にドイツやフランス、スペイン、アメリカ本土など全体的に大陸の人が多かったです。大陸の国では海辺の町って稀じゃないですか。東京という魅力的な都市からわずか90分や2時間でこんな素晴らしい海辺の町があることが、彼らにとっては魅力的だったようです。
手応えのあった夏を過ぎ、これから秋の行楽シーズンだ、頑張るぞ、という時に台風15号が直撃。停電を含む大混乱で予約がなくなってしまいました。一方で医療・報道・通信・自衛官などの復興関連の方々の拠点としてご利用いただくことが増え、「観光でも復興でも、あらゆる人に快適なベッドとシャワーって必要なんだな」と気付き、ゲストハウスの社会的使命を感じるようになりました。
竹内 その後、年明けにはコロナが直撃します。
漆原さん 館山は関東でもいち早く春が訪れる町で、2月後半からは、花摘みやイチゴ狩りで夏に次いで盛り上がる時期なんです。予約は順調に積み上がっていたのですが、コロナの感染拡大後は、毎日予約管理画面をリロードするたびにキャンセル、キャンセル、キャンセル…。予約が溶けていく感覚でした。
コロナで先行きが見えない状況でしたが、とにかくつなぎ融資みたいなものは一通り申請し、幸い従業員の規模も部屋数もそんなに多くなかったので、今は割り切って他の準備をする時期だと思い直し、「永遠の図書室」とシェアハウス、それとtu.ne.Hostel別館の立ち上げに時間を費やしました。
今まさに、このtu.ne.Hostelの向かいに別館を作るべく工事中なのですが、相部屋タイプのドミトリーの部屋はコロナ禍で限界を感じていたので、そちらは個室タイプにしています。
相部屋タイプの部屋も、コロナ前まではそれなりの稼働率だったんですが、やはり日本人には他人との相部屋、2段ベッド、ドミトリーというのはそもそもあまり馴染みがないのだと気付きました。
竹内 ヨーロッパなどではユースホステルは一般的ですし、私は中学から大学までアメリカでしたが、アメリカの私立大学では1年生、2年生の時は寮に入ることが基本的に求められ、そこではルームメートと2段ベッドを共有することが多いですけどね。
漆原さん 余談ですけど、徴兵制がある国では、2段ベッドでの共同生活を必ず体験しているので違和感はないようですね。
リノベーションまちづくりの意義は日常を作ること
竹内 いずれにしても、コロナ禍の真っ只中でも新しいことに取り組んでいこうというのはすごいですね。tu.ne.Hostelの別館だけでなく、隣でお蕎麦屋さんの開業準備もされているとか。
漆原さん お蕎麦屋さんは急な話で、今年の8月、tu.ne.Hostelの横で元借家を改装して営業していた飲食店が退去することになり。せっかく灯った灯りを消してしまうのは切ないと思い、自分で運営することにしました。
賃料も安いし、前の運営者さんが冷蔵庫などの什器類を残してくれたので飲食店としての基本機能は整っていました。ここでは立ち食い蕎麦の営業を考えており、12月にオープン予定なのですが、なぜ立ち食い蕎麦にしたかというと、「リノベーションまちづくり」という考えを、分かってくれる人は分かってくれるんですけど、普通の商店街の皆さんは、未だによく分からないと仰る訳です。
その人たちに「リノベーションまちづくりがここで起きてよかったな」と思ってもらうには、毎日「美味かった」「あってよかった」という経験をしてもらい、リノベーションまちづくりの意義は日常を作ることなんだよ、ということを理解してもらうことが必要ではと考えたのです。
最初はベーグルとかバナナシェイクとか、それこそ代官山が館山にやってきたようなお洒落な業態を考えたんですけど、それだと観光シーズンはいいのかも知れませんが、町の人たちが日々の生活で「あってよかったな」と思ってもらえるものではないですよね。
竹内 示唆に富んでいますね。ミナトバラックスもtu.ne.Hostelもデザインが洗練されていて本当に素敵ですが、移住してきたりホステルに泊まりに来る人は県外・市外の人がメインな訳ですよね。その中で、蕎麦屋のように日常的に地元の人を相手にした商いがあると、なるほど、リノベーションまちづくりというのはこういうことなのか、という理解が得られると。
漆原さん この土地で商いをやっていると、お互いを屋号で呼び合うんです。和田屋さんとか清水屋さんとか。僕は「ツネさん」と呼んでもらえるようになり、ようやく商店街の一員として一部では認めてもらえたのですが、もっと分かりやすく、それこそ近所のガソリンスタンドのアルバイトさんが休み時間に食べて美味しかったな、近くに立ち食い蕎麦屋があって良かったなと思ってもらえるくらい、分かりやすい形に落とし込みたいのです。
竹内 リノベーションを通じた町づくりに関して、漆原さんが考える重要なポイントはありますか?
漆原さん 僕がいた東京の、しかも黎明期のIT業界では、ドッグイヤーだ、マウスイヤーだ、急げ急げという感覚だったと思うのですが、起業を前提とするのであれば、地方での起業は相当リスクを減らしたスモールスタートができると思うんですよね。
tu.ne.Hostelも数千万円でこの規模の宿が始められましたし、立ち食い蕎麦屋さんも月額家賃数万円で始められるし、競争も少ない。市場も小さいといえば小さいですが、その代わり、やったらやった分だけ自分のビジネスの果実にできると思うんです。
大化けするかどうかは別として、自分の間尺にあった心地よいビジネスを小さく立ち上げるなら地方の方がいいでしょうね。僕自身は、あまり地方創生や町づくりという気持ちはなくて、自分でやってみたい、自分のビジネス立ち上げたい、結果的にそれが町のためになれば、後輩たちの刺激になれば、という感覚です。
竹内 今もお話を聞いて、隣の部屋の本棚にあった木下斉(ひとし)さんの「凡人のための地域再生入門」を思い出しました。私も愛読していますが、木下さんが書かれている通り、「地元のためにやっています」という想いが前面に出すぎると押し付けがましいし、鼻につく。
よそ者、若者、馬鹿者がいいんだというのは幻想で、まずは商売として成立させないと持続性にも欠けるし、地元への貢献もできないということを木下さんは書かれていますが、漆原さんのお話にも共通するものがありますね。
漆原さん もちろん田舎特有の難しさもあって、一番の課題はマーケットが大きくないこと。例えば立ち食い蕎麦屋をやるにしても、その1軒だけで家族を食わせるのはなかなか難しいと思うんです。僕自身、大家(おおや)業をやっていて、そこで幾ばくかの収入が確保できているからこそ新しい事業にチャレンジできているので、1つの事業を立ち上げてそこに全て賭けるのではなく、スモールビジネスをいくつも組み合わせていく感覚じゃないと実際は難しいと思うんです。
竹内 リノベーションに話を戻すと、日本では建物の寿命が非常に短く、20年経てば上物の価値はほぼゼロになりますよね。また、戦後数十年でライフスタイルが大きく変わったため、昔の建物は見た目どうこう以前に部屋が小さく細切れになっていたり、設計思想が今と違うため使い勝手が非常に悪いという弱点もあります。この点は、どう克服されているのでしょうか?
(後編に続く)