子どもが自分の親を訴える。育てられないのに、なぜ自分を産んだのだ、と。荒唐無稽に映りかねないその訴えが、当事者にとって、どれほど切実だったのか。出生届を出されず、自分の誕生日も、年齢も知らず、学校に行くことも、あらゆる社会保障を受けることもできず、路上で物売りをして家計を支える──そんなゼインという少年の姿を通じて、レバノン出身の女性監督ナディーン・ラバキーは、偏見や差別がもたらす負のループを、息を呑むほどリアルに描いてゆく。
いったい何人、兄弟姉妹がいるのだろう。子どもたちが雑魚寝している乱雑な部屋は、まるで動物ののようで、けれど、ゼインが妹サハルに生理が来たことに気づいたのは、こうした住環境だったからでもある。
人目を避けて、サハルを外のトイレに連れ出したゼインは、自分が着ていたシャツを丸め、ナプキン代わりに使うようにと妹に渡す。娘が初潮を迎えることは、女になるということ。貧しい家では、望む男がいれば嫁にやるのは一時的であれ、金品その他が手に入るからで、そういう目先のことしか考えられない状況下で、ゼインの両親は生きている。
もちろん体の変化は隠し通せるものではなく、サハルが結婚させられることを知ったゼインは、彼女を連れて家を出ようとバスを手配する。だが、別の世界があることなど想像せず、慣習のなかで生きている両親の前で、ゼインの努力は水泡に帰す。
当座の荷物をビニールのゴミ袋に投げ入れ、家を出たゼインが目的地の前でバスを降りたことも、遊園地で掃除の仕事をしていたエチオピア人女性ラヒルについて行ったことも、本能的な選択だ。彼のセンサーは生き延びるために、つねに働いている。だからこそそのセンサーをオフにして、楽器代わりにドラム缶や鍋を叩いて歌う姿は強く残る。
だが、彼がラヒルと彼女の息子ヨナスと過ごした日々は、束の間のの時に過ぎない。ラヒルが捕まり、ヨナスとふたり取り残されれば、不法就労の彼女でさえ、世間の荒波を遮る緩衝材だったと思えるほど、ゼインの現実は過酷さを増してゆく。
ゼインをはじめ、登場人物はほぼ、物語と同じ境遇で生きる人たちがキャスティングされた本作で、彼らは演技を超えた演技で、社会に自分たちの現状を訴える。
虐待、ネグレクト、児童婚、不法滞在、不法就労、移民問題……。貧困の要因は分かち難く絡み合っている。中東に限らず世界中で起きている理不尽にどう向き合うか。映画は観る者に問いかけている。
『存在のない子供たち』
公式サイト http://sonzai-movie.jp/
7月20日(土)より、シネスイッチ銀座、シューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開