世界最古の庶民のための学校である。つくろうと考えたのは、岡山藩主・池田光政。建築を差配したのは津田永忠である。津田永忠は、日本三名園の1つである後楽園や、生涯に1900ヘクタール以上の干拓事業を差配した傑出した藩政家として知られている。池田光政は熱心な儒教の信奉者で、藩内100か所以上に庶民のための手習い所をつくらせた。ところが庶民のほうではピンとこなかったようだ。あまりに不評だったので閑谷の地に併合することになった。お殿様の道楽と津田永忠以外の家臣は思ったのだろう。最初はずいぶんと簡素な建築だったという。しかし、池田光政は、庶民のための学校に最後までこだわり、「閑谷学校を永遠に残せ」と遺言する。
閑谷学校を永遠に残すというミッションに対して、津田はまずランドスケープをデザインした。人が集まる広場、火除けのための丘や池、長大な石塀が豊かな地勢の中に巧みに伽藍としてまとめあげていった。建築の形は極めてシンプルな幾何学的構成で、この時代の建築として異彩を放っている。屋根瓦は1200度もの高温で焼き締めた備前焼の瓦で、この瓦を焼くための窯をわざわざ造営したという。瓦の下地に細い陶管を埋め、結露による木の腐敗を防ぐ工夫が施された。あらゆる仕上げ材は防虫のために漆が塗りこまれ、雨戸には車輪をつけ摩擦で擦り減らないようになっている。こういった細かい配慮のすべては前代未聞の気配りであり、津田永忠の時代を超越した近代的感覚や、全く常識にとらわれない決断力をよく示す。
津田永忠の死後、ようやく閑谷小学校は庶民に受け入れられ、以来300年以上教育を支え続けている。まさに神殿としての学校建築である。