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サスティナビリティ

連載 | やってこ!実践人口論

ブレーキを無視した先に見える世界がある

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「実践人口」を増やすための合言葉が「やってこ!」である。「やってこ!」が世代を超えたつながりを生み、ローカルをおもしろくする。「やってこ!」と叫べない私たちへ。

 以前、本コラムで「正社員雇用」の話を書いたのだが、ついにこの9月から『Huuuu』に2人の正社員を迎えることになった。その一人が、『Huuuu』立ち上げ当初から伴走してくれている友光だんご。そんな彼が、突然「やってこ!」について思うところを書いた文章を送ってきたので紹介したい。正社員になるにあたっての、彼なりのケジメだろうか。いつもとは違う「やってこ!と叫べない」側の視点に、きっと共感できる人もいるはずだ。

 ”魔女”と呼ばれる女性の整体を受けたことがある。ヒッピー風の装いは雰囲気こそあれ、なにが”魔女”なのだろう……?そんな疑念は、施術の途中で”魔女”が放った言葉で消え去った。

 「あなたは早めにブレーキを踏む人でしょう。そして、それを気に病んでるんじゃないですか?」

 僕は数年前、『Huuuu』代表の徳谷柿次郎と働き始めた。その少し後に、徳谷は「やってこ!」なる言葉と出合い、いたく共感してスローガン的に唱え始める。すると、彼の周りにわらわらと「やってこ!(=実践主義)」に共感する人々が集まり始めたのだ。

 イベントや飲み会のたび、彼ら実践主義者は「やってこ!」と気炎を吐く。その高揚感に巻かれながら、僕はどこか居心地の悪さのようなものを感じていた。それはすなわち、実践主義者になりきれていないコンプレックスだ。そんなモヤモヤを、”魔女”はあっという間に言い当てた。

目次

やり続けてこそ、たどり着ける世界。

 人は誰しも、目に見えない「アクセル」と「ブレーキ」を持っている。全力をかけて何事かに挑むとき、人はアクセルを踏み、自らのなかのエネルギーを燃やす。一方で、これ以上はやれない、無理だと感じたときにはブレーキを踏む。

 実践主義者たちをそばから見てきた僕が思うに、「やってこ!」とはブレーキを無視し、アクセルをひたすらに踏み込むための魔法の言葉だ。自分を奮い立たせ、リミッターを外す。しかしなぜ、そんなものが必要なのか?

 実践主義に共感するのは、自ら旗を立てて何事かをやり続けている人に多い。ローカルの課題に取り組む人、ひとり職人として生計を立てる人、会社を経営する人……。どうにもならない壁に直面したとき、彼らは「やってこ!」と叫び、自らを鼓舞する。そうしてアクセルを踏み、実践し続けた先に、何事かを成し遂げ、到達できる世界があると、彼らは教えてくれる。

ブレーキは本当に必要か?

 しかし、彼らにもやれなくなる瞬間は訪れる。例えば3日連続の飲み会の終盤、深夜2時を過ぎたころ。目に虚無が宿り、ひっそりと活動停止した実践主義者のが酒宴の片隅で見つかる。それも当たり前だ。人間なのだから、限界を超えてやり続ければ死んでしまう。

 だからこそ、人は生まれながらにブレーキを持っている。そのブレーキを踏むタイミングを少しでも先に延ばす。それこそ死んでしまうぎりぎり手前まで。そんなチキンレースを続けているのが実践主義者なのかもしれない。

 世間一般で見れば、先にブレーキを踏む人のほうが多いだろう。「できるだけ無理はしたくない」「いいアイデアだけど大変そうだ」「失敗したら笑われるかも」。”魔女”に言い当てられたように、僕もそちら側の人間だ。実践主義者たちの姿に惹かれながら、気づけばブレーキを踏んでしまう。

「できることをやる」実践主義もある。

 だからこそ、”魔女”の指摘は図星だった。実践主義に憧れながら、踏み出しきれていないさまをズバリと見抜かれた。けれど、彼女にはこうも言われた。

  「人それぞれエネルギーの総量は違うのだから、ブレーキを踏むことは悪いことじゃない。しゃにむにアクセルを踏んでエンストしてしまうより、上手にブレーキを踏んで、長く走り続ける方法もある。気に病んで動けなくなってしまうより、できることをやればいいんじゃない?」

 なるほど、僕は「やってこ!」の理解者であることはできる。ブレーキを無視できないかもしれないが、だからこそ彼らが倒れそうになった時には支えられる。「やってこ!」と叫べなくても、自分にできることを全力でやる。そこから始まる実践主義もあると、”魔女”は教えてくれた。(友光だんご)

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