ぼくが暮らす湖を取り囲むのは若い原生林。若いといっても“森世界の基準”だ。
200年ほど前、目の前の火山が爆発し、一帯の森を焼き尽くしてしまった。そこから再生を始め、現在の深い森となった。つまり、森年齢は約200歳。
通常の原生林だと、数千年から数万年は当たり前。太古の森とも呼ばれる「原始林」クラスとなると、数千万年、時に億単位になってくる。“森世界の基準”で考えると、ぼくの家の周辺に展開する原生林も、まだまだ赤ちゃん程度。
とはいえ、ぼくら人間にとっては“ド迫力のオーラ”を放つ存在であることは言うまでもない。
そんな偉大なる森にとっての「時間の流れ」は、小さな存在であるヒトの時間感覚に比べて、はるかに雄大で悠久のもの。それはきっと宇宙レベルなのだと想像する。
その目の前の原生林の、神々しくも猛々しい、圧倒的な存在感を前に、我が家を訪れる友人たちは誰もが息を呑む。ぼくも、夜明けの光が照らして黄金色に輝く、森と向き合いながらヨガをしているとき、無意識のうちに胸の前で何度も手を合わせてしまう。
それは、ぼくに恵みの食料、水、空気を提供してくれていることへの感謝の念と、ぼくを「生かしてくれているグレートネイチャー」への畏怖の気持ちの両方が、そうさせるのだ。
さて、過去2回にわたって我が家の有機の菜園と小さな果樹園、そして庭の木々の大がかりなメンテナンスの話をしてきた。そして、これらの行為こそが、「土と野鳥と友達になること」に直結するのだ。
ここから書くことは、8年目となる“森の生活”を通して得た、ぼくの「感覚値」が主となることを、あらかじめ先にお伝えしておきたい。
外で毎日、数時間の肉体労働を行うことで、骨格や背筋が真っ直ぐに矯正され、毛細血管の流れがよくなり、全身の細胞のバランスが整っていくのがわかる。さらに、世界中を旅してインプットしてきた「情報や感覚」が整理され、頭の中からノイズが消え、心からは邪念や我欲が霧散してゆく。
これは大自然の下、無我夢中になって、心地いい全身運動を繰り返し続けることによって得られる“心身の究極の境地”と言えるだろう。
さらに、森が生産する濃厚なマイナスイオンとフィトンチッドを豊富に含む空気と、ピュアな湖水を、毎日、大量に摂取することで、日に日に心身が健康になることは、説明不要だろう。
そして、周りの原生林と豊かな大地には、それこそ無数の「良質な微生物(=善玉菌)」が生息している。
彼らは、あらゆるものを分解し、土に還してゆく。それに加え、植物や動物を含む、地球上すべての生き物の「生命活動」をサポートしているという。
彼らの活動範囲と役割は、現代科学でも、ほとんど解明されていない。当然、ぼくらの身体にも無数の微生物が生きていて、ぼくらの生命活動を支えている。
髪の毛、頭皮、皮膚、爪、そして内臓にも。特に腸内には、100兆個もの腸内細菌(微生物)が存在し、健康を大きく左右する「腸内フローラ」を構築している。人間の細胞の数が60兆個だから、その数がいかに多いかがわかるだろう。これほどの数を誇る体内細菌たちが、ぼくらに大きな影響を与えていないはずがないのだ。
植物たちと向き合いながら、地面に這いつくばり、前述の一連の作業を何日も続けていると、ぼくの微生物が、森のそれと入れ替わっていくのがわかるようになる。
周りの森の微生物と「シンクロ」することこそが、世間でよく言われる「自然と一体化する」ことなのではないか、というのが現時点でのぼくの仮説だ。「ぼく自身という生命体」から“異物感”が減って、よりナチュラルな存在になり、自然界の微生物とつながることで、「周りの森や大地から受け入れられている」という、あの不思議な感覚になれるのだろうとぼくは考えている。
これは、ぼくが釣り竿とバックパックを背負い、山や森の奥へ冒険するとき、4日目〜1週間目くらいから得られる感覚にとても似ている。
不思議なことに、そのタイミングから、大自然の奥地での壮絶な生存競争を勝ち抜き、警戒心がとても強くなった「野生の巨大魚」が釣れるようになるのである。
ここ湖畔の森でも、土の微生物まみれになっての作業を開始して1週間目くらいから、野鳥や水鳥が、ぼくの存在を無視するようになる。すぐ近くを飛んだり、目の前にとまったり、足下を歩いたり。時に、目が合っても逃げようとしなかったり、ぼくの口笛に反応して寄ってきたり。
その時、うれしい気持ちになりつつも、ぼく自身が人間界の住民でなくなりつつあるような、ちょっとした寂しさも感じてしまうのだ。