人々の健康や五穀豊穣を祈り、神に捧げて舞う神楽。写真は、福岡県嘉麻市上山田・射手引神社で2014年に誕生した「弥栄神楽座」による奉納の様子だ(撮影:長野聡史)。この神楽を振付・指導しているのが、振付師でダンサーの緒方祐香さん。彼女自身は佐賀県出身で、約3年前に嘉麻市へ移住してきたという。ショービジネスのチャンスが多い関東を離れ、なぜ九州へUターンしたのか、嘉麻市へ移り住み神楽を率いる理由とは。
ニューヨーク留学で育ててもらったダンス感
幼少期からクラシックバレエを始め、学生時代にはヒップホップやジャズダンスなども習得した緒方さん。ミュージカルに憧れて2003年、高校卒業後にニューヨークのダンス学校へ留学する。ショービジネスの本場で期待いっぱいの新生活がスタート…というわけでもなかったそうだ。
緒方さん「若かったのでフワフワしてたんでしょうね。最初はひどくホームシックになったり、本場のミュージカルを見ても『私これがやりたかったのかな?』と迷い出したり…。でも、あるとき殺陣を学ぶ授業の一環で日本の芝居を見せる機会があったんです。その舞台を見たminbuzaという日本の郷土芸能を専門とするダンスカンパニーの先生が声をかけてくださって、ニューヨークにいながら日本の踊りも学ぶことになったんですが、特にその先生が踊る『越中おわら節』を見た時は日本の伝統芸能の美しさに感動しましたね」
不思議な縁でこの時の経験がいま、振付を担当している神楽に生かされているという。この出会いをはじめニューヨークで過ごした日々は、ダンサーとしての技術だけでなく心意気も学んだ3年間だったと緒方さんは振り返る。
緒方さん「いまの自分のダンス感はニューヨークから始まってます 。地元にいた頃からジャズダンスやヒップホップのような”形”で表現するダンスは得意なつもりでいたけど、あるとき70代のカリスマみたいな先生から『あなたの中身やイメージはすごく美しいが、技術が追いついていないからまずはそこから伸ばしなさい』と言われたんです。ニューヨークには体の使い方も精神も理屈では説明できない様々なダンスがあって、ガーン!と衝撃を受けましたね」
埼玉のカンパニーに所属し数々の舞台に
ニューヨーク留学中に廊下でタオルを渡してくれたのが、同時期に文化庁の派遣留学で来ていたコンテンポラリーダンサーの菊池尚子さん(ダンススクール705 Dance Lab、ダンスカンパニー705 Moving Co.主宰)だ。
緒方さん「廊下での出会いから2ヶ月後、作品制作でポッチャリ体型のダンサーを探していると言われ(笑)、菊池さんの作品に出させてもらったんです」
その後、菊池さんが埼玉県ふじみ野市にスタジオを作る際に声がかかり、緒方さんも帰国後に門下生として加入。菊池さんにコンテンポラリーダンスを学びながら、スタジオで行われる子ども向けのダンスレッスンで教え、給料も貰えたという。また、気鋭のコンテンポラリーダンサーとして注目され勢いがあった菊池さんは、制作する作品数も多かった。出演ダンサーも多く必要とされ、緒方さんのような若手のカンパニーダンサーであっても、彩の国さいたま芸術劇場や新国立劇場など、大きな舞台で踊る機会もあったという。
緒方さん「私は器用な方だと思っていたのですが、コンテンポラリーダンスの世界では全然経験が足りず。菊池さんには技術的にもそうだし、現場での“ダンサーとしてあるべき姿”もしっかりたたき込んで育てていただきました。ダンサーとして使い物になるようにチャンスもたくさんいただいて。今の私があるのは菊池さんのおかげです」
父の病を機にUターン、九州から全国各地へ
2012年~2013年、緒方さんが28~29歳の頃にかけて、大きな転機となるさまざまな出来事が続く。
緒方さん「2012年に菊池さんのカンパニー・705の所属ダンサーを辞めたんですね。生徒としては残る形で。それとほぼ同時に、日本全国をツアーで回る仕事が初めて決まったんです。それがきっかけでダンサーとしての仕事も世界も、どんどん広がり始めました」
この頃はまだ埼玉に住んでいたが、図らずも九州での仕事が増え、別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」を機に結成された「The NOBEBO」での金粉ショーなど、さまざまなプロジェクトに携わる。
緒方さん「別府のフェスティバルに出ていた時にいろいろ情報が入ってきて、九州も結構面白いなと。もともと30歳くらいになったら、九州に帰りたいなと思っていたんです、大好きな両親もいるので。そんなことを言っている時に、父がガンになってしまい…。それで、『あ、今だ。帰ろう』と」
緒方さん曰く「パズルのピースがピタッとはまるように」、いろいろなタイミングが重なってUターンを決断。2013年に佐賀の実家に帰り、ダンスの仕事は福岡市内を中心に活動をスタートさせる。文化事業に力を入れていた当時の福岡市の行政も追い風となって、福岡市文化芸術振興財団からの仕事や日韓共同制作プログラムでの舞台など、帰郷後もダンサーとしての仕事は好調。金粉ショーは京都・東京・沖縄・青森などにも呼ばれるなど、業界でも注目される。
また、ダンサーとしては仕事だけでなく、表現力のステップアップや新しい技術の習得を目的に、全国各地に自費で行くことも。青森・八戸には山伏神楽を習いに足を運んだという。
縁がなかった福岡県嘉麻市へ移住することになった理由とは
嘉麻市の神社で地域の人々とゼロから神楽を立ち上げる
2013年に生まれ故郷の佐賀へ戻った緒方さん。隣県とはいえそれまで福岡県嘉麻市には全く縁がなく、同市のある筑豊地域にも行ったことがなかったという。ではなぜ、射手引神社で神楽を生み出すことになったのか。
緒方さん「神主の桑野隆夫さんから、『この町には神楽がない。地域で代々受け継いでいく神楽を一緒に作ってほしい』と依頼がありました。芸術や音楽などに見識が深い方で、どこかで私が踊っているのを見て覚えてくださっていたようで、そこから1年後くらいに人づてに探してお声がけいただいたんです」
こうして2014年に始まった「弥栄神楽座」は、緒方さんが振付・指導し、衣装や舞台美術もクリエイターや地元の人などで一から手作り。神楽を舞う“舞い手”も木材屋やガス屋、福祉施設の職員、教師、精神科医など、嘉麻市周辺に住む人々で、当然、踊りは全くの素人だった。
緒方さん「郷土芸能なので地元の人がやるのは当然なんだけど、神楽が元々ある土地なら子どもの時から馴染みがあるんです。でもここでは、普段踊りなんて全くやらない大人の方に指導していくので、最初は大変でした。でもみなさん本当によく練習してくださって…私も結構厳しく指導してましたし(笑)。だから6年目のいまは、みなさん立派な郷土芸能の舞い手に見えますよ」
2年目からは地域の子ども達も舞い手に加わっている。子ども達は学校、大人は仕事がありながらも日々練習を重ね、毎年の神楽の奉納はもちろん、イベントなどに招待されて披露することもあるという。
緒方さん「みなさん大変だとは思うんですが、舞台に立つとパワーが貰えるんでしょうね。今では神楽が生きる糧になっている方もいて、たとえば人と接することが苦手な人も普段は緊張で体がこわばっているけれど、神楽がもう体に馴染んでいて、しっかり形になっているんです」
住民として神楽を伝えたいと、嘉麻市へ移住
射手引神社のある嘉麻市上山田には佐賀から通ったり、練習が多い時期は2ヶ月ほど地元の人の家に居候していた緒方さんだが、ついに2017年、移住を決意する。神主から築50~60年の元お茶屋の店舗付き物件を紹介され、神楽のメンバーにも手伝ってもらいDIYで改修して住めるようにしたという。
緒方さん「自分が作ったものが郷土芸能として人々に親しまれているのは本当に嬉しいし、私自身も地元の住民として神楽を伝えていきたいという思いが強くなって、住むことにしました。それに、ここ(嘉麻市上山田)が本当にすごくいいところで。今は過疎化してしまっていますが、昔は炭鉱町で都会だったので、実は結構インフラが整っていて便利なんです。家の近くに大きな病院もあるしコンビニ、図書館、銀行もあります」
町としての住みやすさもそうだが、飲み屋で会えば一緒に酒を酌み交わしたり、地域の人たちが集まって神社のしめ縄を作ったりと、昔ながらの人付き合いが心地よいと緒方さん。
緒方さん「実は金粉ダンサーの相方も嘉麻市に移住してきたんですよ。東京出身ですが、何度か来て神楽を手伝ったりしているうちに、ここの人や暮らしに魅力を感じて、いつのまにか住んでいました(笑)」
現代では少なくなった人と人との温かな繋がりが残るこの地だからこそ、神楽は大きな意味があると緒方さんは言う。
緒方さん「神楽があることで人々の居場所になるし、いまを生きる人たちの“横の繋がり”と、次世代への“縦の繋がり”の両方が守られる。いろいろな人たちの体を通して受け継がれていってほしいですね」
(c)弥栄神楽座
ダンスと日々の暮らしは切り離せない。葛藤の末に選んだ兼業とは
九州へUターン後も順調に振付師・ダンサーとして活躍してきた緒方さんだが、それでもダンス1本で暮らすのは難しく、別の仕事もしているという。
緒方さん「九州に戻ってきた頃に、障がい者によるダンスパフォーマンスの舞台に関わらせてもらったんですが、その時からのご縁で『NPO法人まる』のスタッフとして、障がいのある人とアート・社会をつなげる仕事をしています。それから時々、自分のダンス教室やストレッチなどのクラスを開いて、生徒さんに教えたりもしてますね。実は食べていくために、最近まで英会話講師の仕事もしていたんですが、全くダンスと無関係の仕事は私にとってはなかなか大変で。片手間でできる仕事ではないし、自分に無理強いしたら続かないなと思い辞めました」
もちろん好きなことを続けながら日々を生きるために、スパッと割り切って全く別の仕事をしている人もいる。また、緒方さんのように、緩やかに関わりを持たせた兼業を選ぶ方法もある。
緒方さん「いつもお金がないので、人から見たら不幸かもしれませんが(笑)、私自身はずっと好きなダンスに携われているのですごくラッキーな人生だと思っています。運と縁に感謝して、いまあるものを大事にこれからも生きていきたいですね」
どこに住み、どう働くか。好きなことを優先するか、安定した暮らしを取るか。人の価値観は千差万別なので正解はないが、大切なのは人生の岐路に立ったとき、自分らしさを失わない選択をすることだ。