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多様性

連載 | フィロソフィーとしての「いのち」

いのちは かくれる

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子どものときの記憶を膨大に覚えている。なぜなら、意識的に思い出し続けているからだ。記憶は何層にも改変されているようだが、原初の記憶にたどり着きたいと思う。泥の底にある記憶の核を見つけたいのだ。はじまりの場所をこそ信頼しているから。

感受性の原点は子ども時代という魂の故郷にこそある。「はじまりの記憶」をひとつ手繰り寄せると、その薄皮を一枚一枚めくるようにして、ひとつ前の「はじまりの記憶」にたどり着く。そうして、時の針は過去へ過去へと、原初へ原初へと逆回転していく。曖昧で混沌とした場所は、偏見や常識が生まれる前の風景だ。迷いが生じたときは、子どもの場所にアクセスする。わたしのホームはどこなのか。判断の物差しは外部にはなく、内部にこそ隠されている。偏見や常識が生まれる前の風景や記憶が、わたし自身の軸や核を理解するための重要な鍵だ。

「はじまりの記憶」……。最初に自己意識が誕生した、「わたし」の「はじまりの記憶」。最初に愛を体験した記憶。最初に水に触れた記憶。最初に雨に濡れた記憶。最初に雷を目撃した記憶。最初に海を見た記憶。最初に虹を見た記憶。最初に昆虫の顔を見た記憶。最初にいのちの手触りを感じた記憶。最初に眠りを認識した記憶。最初に死を認識した記憶。

「はじまりの記憶」は膨大にある。記憶はていねいに"保管"されているが、その場所に行かない限り、使われないままで役割を終える。門を開ける人は自分しか存在しない。わたしは、恐れと好奇心を持ちながら、毎日のようにはじまりの記憶と接する時間をつくっている。周りから「子どものときの記憶なんて何も覚えていない。あなたの話には驚いた」と言われたとき、むしろわたしが驚いた。何を自分の物差しにすればいいのだろうか、と。記憶は脳内の海馬だけではなく、体験や感覚も含め、体と心のすべての場所に蓄えられているのではないかと思う。多くの人は子どもの時の記憶を押し入れ深くに押し込み、忘れている。人は未知のものに恐怖を感じるからだろうか。記憶の部屋を、定期的に掃除する。風を通し、埃を払い、時に磨く。整理・整頓することで、記憶の部屋は滑らかに入りやすい場所となる。何事においても手入れが肝心なのだ。

わたしのはじまり、現在や未来のわたし。その差異と共通点を理解することは、生きている過程で付着した偏見や先入観を理解することでもある。それはまるで、自分が主演の映画を観るような体験だ。そのとき、映画を観ている私と主演している私は、同時に存在し、同時に更新されているのだろうか。

連続的な時の重なりを、終わって失ったものとしてではなく、いまここに重なり合い響き合っているものとして感じてみる。その響きや手触りを感じながら、「はじまりの記憶」を抱きしめ、愛おしみながら人生を生きていく。そうしたことは、子ども時代のわたし自身が教えてくれたことだ。わたしは、日々眠り、そして、目覚めている。

文・絵・写真 稲葉俊郎

いなば・としろう●1979年熊本県生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014-20年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(「山形ビエンナーレ2020」芸術監督就任)。在宅医療、山岳医療にも従事。未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。単著『いのちを呼びさますもの』(2017年、アノニマ・スタジオ)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年、同社)、『ころころするからだ』(2018年、春秋社)、『からだとこころの健康学』(2019年、NHK出版)など。www.toshiroinaba.com

記事は雑誌ソトコト2022年5月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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