写真だからこそ、伝えられることがある。それぞれの写真家にとって、大切に撮り続けている日本のとある地域を、写真と文章で紹介していく連載です。
太宰は佐渡が淋しいところだと聞いていて、新潟市での講演を終えた後に興味を持って佐渡を訪れる。おそらく死に近づきたかったのだろう。死を遠ざけて生きるよりも、そばに置いておいて、抱かれることで、心が安らいだのだと思う。でもその佐渡の大きさに圧倒され、生命力に抗うことができない。期待を裏切られて失望する。その心の移ろう様子と情景が見事に描かれている。
いま佐渡に行くのに、東京からだと新幹線で新潟市まで2時間、そこからジェットフォイルという高速船で1時間、乗り継ぎを入れても4時間に満たない。早い時間に出れば佐渡でランチが食べられる。でも昔はそうではなかった。東京・台東区上野から夜行電車で8時間、長いトンネルを抜けて新潟駅に着いて、そこからカーフェリーで3時間。地図で見るより遠かった。その経験が心にあってこの短編を読むと、より深いところで響く。
僕が佐渡に住んでいたとき、およそ30年前に感じていたのは、死ではなく老いと呼ぶほうが相応しいものだった。過疎化が進み、生徒が減った学校は統廃合され、家屋が朽ちてゆく。海から吹きつける潮風と雪がそれを加速させた。暮らす人たちは、北国に特有の忍耐強さで、黙って受け入れているように見えた。その姿を見ているのが辛くなり、もう戻らないつもりで佐渡を出た。
でも写真を仕事にするようになって、日本中の観光名所を訪れると、必ずと言っていいほど佐渡の面影を見る。切り立った岩の影、社の荘厳さ、森の深い碧、視界を海と空で2分するコントラスト、どれも佐渡で見た記憶と共鳴した。
あとで知ったことだが、佐渡には日本が凝縮されていると言われている。北側と南側で気候が違うことや、金山で栄えたとき日本中から人が流れてきたことによるものだという説もある。そんなわけで文化的にも気候的にも多様だ。自分の中にその血が流れていることを、次第に誇りに思うようになってきた。
もうひとつ、写真家として佐渡に惹かれる理由がある。
佐渡を囲む海の厳しさは、いろいろな欲求を拒んできた。以前までは、月曜日に発売される雑誌が木曜にならないと届かなかった。ヘインズのTシャツさえ手に入らず、夏休みに東京に行く同級生に買ってきてもらっていた。そう大昔のことではない。明治時代や江戸時代には、もっと孤立していたはずだ。「島抜け」という落語の演目のなかに、当時の佐渡がいかに外界から閉ざされた場所だったかが描かれている。まさに孤島だった。
でもその海のおかげで、ガラスケースに守られた標本のように、佐渡には「ある時代の光景」がそのまま残っている。もちろん風化はしている。でも上描き保存はされていない。標本とは違って生き続けているのだ。被写体として、こんなに魅力的なものはない。
近年になって、さらに新しい変化があった。外からやってきた人が、「ここには美しいものがあるじゃないか!」と、佐渡の新しい価値を発見してくれた。そこに住む人たちにとっては生活そのもので、日常でしかなかった棚田、あるいは佐渡の気候が育んだ杉、複雑なコントラストを成す海岸線、アニメの世界そのままだと賞賛される産業遺産など。その多くは、「こうして見ると美しいですよ」という写真により、外に広まっていった。新しいまなざしが、佐渡を再生してくれたわけだ。
自分なら、そこをふたつの視線で捉えることができるかもしれない、という思いがある。生まれて育ったことを嫌っていた自分と、その血が流れていることを誇りに思える自分と。新しさを感じながら、懐かしさを抱いて。
記事は雑誌ソトコト2022年5月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。