「ジャム 」の闘い 。

連載 | ゲイの僕にも、星はキレイで肉はウマイ | 57 「ジャム 」の闘い 。

2023.01.26

小学六年で転校した学校には「中心」があった。それは転校する前の学校にはなかった。容姿端麗で異性に人気な子はいたし、風みたいに足の速い子もいたけれど、その子たちもさしずめ、"みんな"のうちの一人だった。だけど新しい学校では、そういう子たちが「中心」にいた。彼らは子どもじみた話題を嫌い、実際大人びて見えた。

「中心」では肩パンが流行っていた。どちらかがギブアップするまで肩に強烈なパンチをお見舞いするという戯れだ。僕はなんとか「太田はそういうのじゃない」というポジションを獲得しようと頭をひねり、「中心」のそのまた中心にいた茶髪の少年にさりげなく近づいた。揚げパンのおかわりで彼の前に並ぶ時、理科室への移動で一緒に階段を上る時、僕は彼を笑わせようと試みた。それは大げさであってはならなかった。無理をしているような素振りを見せては、「本物」ではなくなる。何かの「本物」でなくては「中心」に近づくことはできない。僕は腹の底の緊張を毛布でぐるぐるにくるんで、小さなボケやツッコミを重ねていった。

決勝打となったのは、コッペパンの日だった。「ジャムおじさんに似ている」という粗雑なイジリによって「ジャム」というあだ名をつけられていた僕は、ならばOK、わかりましたと、給食でジャムが出る日を把握していた。そして、その日はジャムが出ない日だった。僕はくすねていた四角いいちごジャムを気怠い感じで茶髪の彼に差し出す。「お礼はいいで」。

その日から僕は、「あいつはおもろい」になった。肩パンの回避に成功し、クラスの村人Aになった僕は、周りがよく見えるようになった。ある時、授業中に立ち上がりクラスへの文句を叫んだ男子は、「あいつはこわい」を獲得した。テストで1番を取り続けた女子は「あいつはかしこい」になった。そして、いく人かの子たちは、ただ自分らしくあろうとした結果、教室という円の際に立たされるような日々を送っていた。何度も何度も足元の線をまたぐか逡巡し、やっとの思いで不登校を選ぶ子もいたし、ずっとただ線を見つめている子もいた。それに気づくことさえない「中心」という理不尽に、僕はゾッとした。「中心」はかならず周縁をつくり、周縁に立たされる人々の個性を、一瞥もせず奪っていく。

そんなことを思い出したのは、先日読んだある記事がきっかけだった。その記事の中では、ゲイの当事者らがこんなことを語っていた。「自分はこれまでずっと楽しく生きてきた」「アクティビストの話は暗く、つらい話ばかりだ」「彼らは代表や代弁者ではない」。

アクティビストが「中心」ではない。彼らはそう言いたいようだった。こういった偏った認識を持たせているのは、界隈全体の課題だと僕は思う。ただこの記事には、「中心」が持つ引力に対する彼らの警戒心や恐れがにじんでいて、そのことが印象に残った。それは、周縁に誰かを立たせまいという願いでもあり、ならば僕の気持ちは、彼らと同じなのかもしれないと思った。

「中心」に目配せをしなくても、ちりぢりに生きていける時代になった。通信教育は充実し、子どもたちの学び方は多様化している。デバイスがあれば働く場所を選ばない、という人も増えた。月9を見ていないと会話についていけないなんてことはなく、皆がそれぞれに好きなことをし、誰かとつながれる時代になった。だが一方で、いまだ「中心」と対峙せねば変えられない事柄も山ほどある。その一つが、LGBTQのあれこれだ。

「中心」と対峙するには「本物」でなくてはならない、と小学生の太田は思った。「本物」とは嘘のない人のことだ。自分のままで闘うことを決めた人の中には、立ち上がり叫ぶ者がいて、何か秀でた成果を出そうと机に向かう者もいる。コッペパンにジャムを仕込む僕もいるのだ。そうやって「中心」に抗う人々は、だれも「中心」ではない。僕は今もこんな連載を書いたりと、ジャムを仕込むような、ひねくれたことを続けている。意味があるのかはわからない。でもいつか、「中心」がルールを変えるその日まで、皆と共に、こんなことを続けたいと思う

文・太田尚樹 イラスト・井上 涼

おおた・なおき●1988年大阪生まれのゲイ。バレーボールが死ぬほど好き。編集者・ライター。神戸大学を卒業後、リクルートに入社。その後退社し『やる気あり美』を発足。「世の中とLGBTのグッとくる接点」となるようなアート、エンタメコンテンツの企画、制作を行っている。

記事は雑誌ソトコト2023年1月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。