これが出る頃には諸々の議論も収束しているのだろうか。自民党の杉田水脈議員が書いた月刊誌への寄稿文の中に「LGBTは子を持たず生産性がないため、税金を使う必要がない」といった内容の記述があった。彼女の辞職を訴えるデモは5000人規模に発展。大きく物議をかもしている。
杉田氏は、もうずいぶん前から個人のLGBT差別感情を公に披露されてきた方で(彼女は「区別」と定義しているそうだが)、その不見識な個人的見解をあたかも事実であるかのように一般化してくり出すスタイルは「政治家としてスタンスをとっている」として、看過していい域を超えている。
ネット上でシェアされ続けている動画内では、LGBT教育について「“正常”に戻れなくなるから当然必要ない」と堂々語り、「LGBT当事者の自殺リスクは、非当事者の6倍ある」という話を取り上げ、笑った。
何から何まで不勉強としか言えないことばかりで、これが政権与党の議員か、と気が遠くなるわけだが、どうしてここまでトンチンカンなことを言えてしまうのか、僕には理解が難しくて、ついついその思考や感性に思いを馳せたくなる。政の道を志した以上、おそらく杉田氏も世の中を“よく”したいと思って活動されているわけで、LGBTを支援しないことは「正しいこと」と思っていることになる。たしかに政党ごとに戦略があり、支援を後回しにするのが「仕方のないこと」とされるなら百歩譲って理解できるにしても「支援をしないことが正しい」とされると、まいってしまう。彼女はLGBTについて何か学んだのだろうか。もし自分なりに調べ、学び、その上でああなっているのであれば、人間というのはやっぱり分かり合えないものなのだろうかと思わされる。
僕なんて、おそらく杉田氏の対極にいるような人間で、何においても断言することが苦手である。自分は考え尽くした、といつも思えなくて、この連載でも語尾を「だ・である」より「と思う」ばかりにしてしまうのだ。担当編者さんに「もっと言い切っていいと思いますよ」と背中を押されて、なんとか書き終えるのが毎月の流れである。
僕が断言できない理由には、優しさのような、人を思う気持ちのような利他的感情があるからだと信じているが、一方で、簡単に責任を負えないひ弱さもあると自覚している。断言する数は、負う責任の数だ。杉田氏の発言に対しては、「実は共感している人も多い」だとか、擁護する声もあるようだが、僕としては発言の是非を決める前に、とにかく「責任を負うつもりで発言したのか?」とだけは問いたい。
彼女がもし気軽な気持ちで「LGBTについて何を語ってもキャリアに影響しない」と、かの不見識を披露したのであれば、とにかくそれだけは今日から改めるべきだろう。なぜならLGBTの話は、道路交通法の話でも、環境汚染の話でもなく、誰かの「人生」そのものの話だからだ。彼女がLGBTのことを変態と思っているのか、はたまた病気と思っているのか、そんなことは知らないが、一つ言える真実は、僕らがたった一つの人生をもって生まれた「人」だということだ。誰かの人生を評価する時に責任をもって発言できないならば、政治家を続けるべきではないだろう。
とはいえ、今回の一件におけるゴールは彼女をスケープゴートとして追いやることではない点を忘れてはいけない。約5000人が熱い塊となりぶつかっていったその一番の功績は、世界を分断する岩壁の一部を倒壊させたことのはずだ。崩れてできた隙間から、これまで相対することのなかった人々が出会い、対話が生まれるだろうから、その機会を僕は逃したくない。「杉田水脈問題」を通じてこれからいくつもの議論が生まれるだろう。その一つひとつを「ケンカ」にせず、いかに「対話」に変えていけるか、その意識を持ち続けることが、一市民として僕が彼女にできる一番の反抗になるはずだ。