蚊がいやなのは、刺された後、猛烈にかゆくなるからだ。もしかゆくならないでさえいれば、虫好きの私としては、蚊に微量の献血をするくらいなんのことはないし、喜んで助けてあげたいくらいだ。
実際、蚊が刺しているとき、つまり口吻を皮膚に刺し入れる瞬間は、刺激がほとんどないので感じないことが多い。私たちが蚊に刺されたことを認知するのはかゆくなってからのこと。だから刺すことと、かゆくなることは分けて考えなければならない。蚊が刺すために使っているテクノロジーと、その後、かゆくなるメカニズムとはまったくの別問題なのである。また、特別な蚊が媒介すると考えられている感染症(日本脳炎や西ナイル熱などのウイルス感染症)も、もし蚊が血を吸い上げるだけなら、蚊からウイルスが乗り移ってくる可能性は低い。吸血の際、吸い上げるとともに、特殊な液を注入してくるからこそ、蚊に刺されるとかゆくなり、やっかいなケースとしてはウイルスに感染することになる。これについては後で述べることとして、まず、刺す方法について見てみよう。
蚊の口吻が驚くべき最先端ミクロ技術でできていて、ほとんど私たちに悟られることなく、皮膚を掘削する様子については前回述べたとおりである。「最先端」という言い方は実は科学的に正確ではない。この仕組みは新たに作り出されたものではない。蚊は進化史上、1億年前には出現していたので、「最古」の吸血テクノロジーといったほうがよい。
血管のありかを温度センサーや二酸化炭素センサーで感知し、皮膚に着陸すると、複数の細いノコギリ状のメスを交互に動かして素早く皮膚を切開、そこへ極細のストローを差し込む。ヒトの皮膚には痛覚や触覚を感知する神経細胞の先端が散らばっている。それは網の目のように張り巡らされてはいるものの、逆にいえばザルの目のように隙間だらけでもある。だから神経の網の目のあいだの「空き地」にこっそり細い穴を開ければ、宿主が感知しにくくなる。また穴を開ける際、工事現場の穴開け機のように大きな振動をまき散らせば、周囲の感覚点が感知することになるが、素早く、最小限の侵襲で、穴を開ければこれまた宿主は感知しにくくなる。蚊はそれを見事にやってのけるのである。蚊の使う口吻のメスはギザギザになっていて、鋭く、瞬時に皮膚を裂き、振動を与えない。また、周りの皮膚と接触する面積が極めて少ないので、揺れが伝わりにくい。そして何よりもストローが細い。
医療で使われる金属の注射針はどんなに細いものでも直径は0.4ミリメートルくらいはある。切っ先は斜めになっていて皮膚を切り裂き、胴体の部分は円柱状で皮膚にぴったり接触する。このサイズだとどうしても進入時、注入時に皮膚の痛点や触覚点を刺激してしまう。ゆえに注射は痛い。子どもも大人も大嫌い。一方、蚊の口吻のストローはその直径は0.05ミリメートル以下である。蚊の掘削用のナイフやメスの厚みはもっと薄い。だから皮膚にある痛覚や触覚の感知点をほとんど刺激することなく、目的を達することが可能となるのだ。
ならば人間が使う注射針のほうももっと工夫して、極細にしたり、ギザギザ状にしたりすれば、痛くない注射ができるようになるのではないか。そのとおりである。そして実際に蚊に学んでさまざまなテクノロジーが開発されつつあるのだ。
従来のようなステンレスの針を現状よりも細くすることは、技術の点でも製法の点でも強度の点でも限界がある。細く薄くすれば当然折れやすくなる。注射針が途中で折れて、皮膚の中に残ったりすればそれはそれでたいへんだ。内部組織を傷つけ、アレルギー反応や炎症反応を引き起こし、たいへんな医療事故を引き起こしてしまう。製造上、使用上も損傷が起きやすく、また滅菌するのもたいへんである。現在の注射器はガス滅菌・個別包装されて、針にはプラスチックカバーが取り付けられているが、卒業したての不器用なうっかり医者ならそのカバーを外すときに、たちまち針を折ってしまうことだろう。
そこで、高分子の樹脂(ポリプロピレンなど柔軟ながら強度の高いプラスチック)を使って、蚊の口吻に真似てギザギザのついた極細の「痛くない」注射針が次々と開発され、認可されるようになった。糖尿病の患者さんがインスリンを自己注射する際などの福音となっている。生物のデザインやメカニズムに学んで、人間がイノベーティブなものづくりをする流れは、バイオミミクリーもしくはバイオミメティックスと呼ばれ、新しいトレンドとなっているのだ。