生まれ育った地・色川で獣害に立ち向かう。

連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶーローカルプレイヤーの働き方とは | 38 生まれ育った地・色川で獣害に立ち向かう。 解体処理施設を循環の「核」に。

2021.12.28

和歌山県那智勝浦町の色川で獣害対策に取り組みながら、現状を知ってもらうべく狩猟体験ツアーなどを企画をする原さん。2020年には、駆除された獣たちを資源として循環させるべく、解体処理施設を立ち上げました。獣害対策を通して、原さんが目指す色川の姿とは。お話を伺いました。

原 裕
はら ひろし|解体処理施設だものみち運営。和歌山県那智勝浦町色川地域出身。鹿児島大学農学部卒業後、新・田舎で働き隊(現地域おこし協力隊)の獣害対策を進める人材としてUターン。獣害対策のほか、地域外部に向けた狩猟体験を企画する。任期終了後、NPO法人地域再生ネットワークの鳥獣害対策部の職員に。2020年に解体処理施設「だものみち」をオープン。資源の循環や人の交流の場としての活用を進めている。

自然と農業が身近な色川の暮らし

和歌山県那智勝浦町の色川地域で生まれました。那智勝浦町は紀伊半島の東南端、大阪からも名古屋からも4時間ほどかかる、都会から離れた地にあります。中でも色川は、棚田が広がる山間部にある地域でした。

僕は3人兄弟の末っ子で、すごく元気な子どもでした。冬でも半袖短パン、裸足で駆け回っていましたね。小学校は全校生が20人くらいで、みんな友達。自然の中で遊ぶことが多かったです。

家が農業をしていたので、手伝いは当たり前でした。田植えや稲刈りなどの行事の際は、学校を休んで作業していましたね。親父が「農業は大事だから」と学校に掛け合っていたようです。農作業で学校を休むのは少し優越感があったし、いつもより食事も豪華だったので、すごく楽しみでした。

中学に入ると、部活のテニスに打ち込みました。言われてもないのに自主的に朝練をするほど好きでしたね。高校ではハンドボール部に入りました。その頃には思春期に突入し、クールに生きるのがかっこいいと思っていて。頑張って取り組むのはかっこ悪い気がして、何かに打ち込むことはありませんでした。

家の中でも思春期真っ盛り。家族とは全く会話をしませんでしたね。特に親父は、夜に酒を飲んでべろべろになって帰ってくることが多くて、毛嫌いしていました。とはいえ、ダメ人間という印象は全くなくて。威厳があって怖いという印象を抱いていました。

「中途半端な気持ちで帰ってくるな」

受験が近づき、進路について考え始めました。1番上の兄が大学に進学していたので、大学は行くものだと思っていました。とはいえ、将来やりたいことも特に思いつきません。センター試験の結果から、国立大学で合格できそうな鹿児島大学に進学し、農業が身近だったこともあってなんとなく農学部を選びました。

18年間育った地域から離れると、鹿児島もいいところだけど、やっぱり色川がいいなと感じるようになりました。おのずと生まれ育った地域のことを見直しましたね。

実は色川は、40年以上も前から移住者を受け入れてきた、移住の先進地とも言われる地域。320人ほどいる住民の半数以上が移住者です。両親も同時期に色川に移り住んだ移住者でした。

改めて振り返ってみると、親父がいつも酔っ払っていたのは、地域をよりよくするために住民たちと交流を深めていたからだと分かって。そんな親父を尊敬しましたし、自分もいつかは色川のために何かできたらいいなと漠然と考えるようになりました。

そんなとき、紀伊半島に大規模な台風が直撃しました。豪雨が続き水害が起き、色川も一時期は孤立状態になるなど、甚大な被害を受けました。同級生が帰省してボランティアをしていると聞き、自分も何か手伝うべきかなとニュースをぼんやり眺めていました。

手伝いにいくために実家に電話すると、おかんに止められたんです。「中途半端な気持ち帰ってくるな。こっちはみんな真剣なんだから」と。確かに僕はニュースを見てすぐ行動しようとしたわけではなく、友達が行っているからという受動的な理由で連絡していました。どっちつかずな気持ちが見抜かれていたんです。色川のためになりたいと思いつつ、そこまで本気で考えていなかった。そんな中途半端な自分に無力さと不甲斐なさを感じてモヤモヤしました。

獣害対策で、色川に貢献する

大学では、家畜コースに進みました。野菜や森林などのコースもありましたが、せっかく勉強するのであれば、独学ではできなさそうな学問をやりたかったからです。

配属された研究室では、主にヤギに関する動物行動学を研究していました。しかし数年前から獣害が増えたことで、猪も研究対象となりました。

獣たちが農作物を食べたり、田畑を荒らしたりする獣害は、日本各地で大きな問題となっています。日本全国で耕作面積が減っていく中、元々あった耕作地が荒れ地となり、やがて森になり、山と里の境はどんどん曖昧になりました。その結果、獣が里に近づくようになったのです。

色川もまた、獣害に悩まされていました。昼は猿、夜は猪・鹿などが田畑を荒らします。農家はもちろん、家庭菜園をしているおじいちゃん、おばあちゃんも獣の被害に頭を悩ませていました。そんな故郷の状況も頭をよぎり、先輩がしていた猪の研究を引き継いだんです。親父の勧めもあり、狩猟免許も取得しました。

研究は真剣に進めていたものの、卒業間近になっても進路が決められませんでした。就活すらもしていなかったんです。理由は、色川に帰ろうか悩んでいたから。ちょうどその頃、色川で、国の制度である新・田舎で働き隊として獣害対策を進める人材の募集があったんです。親父からは「獣害対策の仕事があるから帰ってこい」と説得されました。

でも親父の言いなりになることに悔しさもあって。それに、色川に帰ったら、一生外に出られないだろうとも思いました。色川に貢献したい気持ちはあるけれど、もっと外を知りたい。悩みましたね。

結局、色川に帰ることを決めました。地域のために活動する親父を尊敬していたし、自分も色川のために何かしたいと思っていたからです。水害のときと変わらず、中途半端な思いのままだけど、今は獣害対策の知識がある。帰ろうと決意しました。

色川に帰って仕事を始め、捕獲の現場に立ち会いました。そこにいたのは、ネットに捕まった鹿。銃器などはなかったため、地域の方に教わり、まずは暴れる鹿をおとなしくするために、頭を殴り気絶させることにしました。鈍器を頭に振り下ろすと、鹿は一瞬で動かなくなりました。命を殺めてしまった。心の中がなんともいえない感情でいっぱいになりました。

しかし、立ち止まっている暇はありません。獣害があるたびに現場に駆けつけ、捕獲をしなければならない場面もしばしばあります。はじめは抵抗があった捕獲も、徐々に慣れていきました。罠をかけて捕獲する以外にも、仕事はたくさんあります。色川鳥獣害対策協議会のメンバーと共に街を歩いて対策マップを作ったり、対策すべき獣に応じて柵を作ったりなど、色川中を動き回りました。

奮闘するうちに、住民から「おかげで畑の被害がなくなったよ」「これで安心して農業ができるよ」と感謝の言葉をもらえるようになりました。自分が色川のために役に立てている実感を持てるようになり、いつしか無力感は消えていきました。

獣の「害」を「資源」に

新・田舎で働き隊のミッションには、都市農村交流という項目がありました。外部の人と交流して獣害の実態を知ってもらうガイドツアーを作る必要があったのです。人と話すのが得意ではない僕にはガイドなんて務まるはずがないと思いつつも、決められているからにはやらねばなりません。仕方なく狩猟体験ツアーを企画し、自らガイドを務めました。

苦手ながらも、ツアーに来てくれた方に色川や獣害について説明するうちに、もっといろんなことを知って経験してほしい、そして何よりも色川を好きになってほしいという思いが芽生えるようになりました。現地の様子を見て参加者に気づきが生まれる瞬間を間近で見られるのが面白かったし、自分自身もほかの地域の方と話すことで多くの気づきを得られたのです。

一生懸命活動を続けていると、足繁く色川に通ってくれるファンも生まれました。中には、色川への移住を決めてくれた人もいて。自分自身が専門である獣害の分野で、色川の関係人口を増やすことができる。大きなやりがいを感じましたね。

ツアーでは、捕獲した個体をさばいて、みんなで食べる経験をしました。農作物に被害を及ぼしているとはいえ、捕獲した動物も生き物です。ただ殺してしまうことには抵抗感がありました。しかし、殺生という言葉が「殺して生かす」と書くように、食べることで獣たちの命が、自分たちの命を作る一部になるのです。そう考えると、捕獲した獣たちをきちんと食べて、生かすことが重要だと感じるようになりました。

そして、ジビエがブームとなっているように、地域の外に獣の肉を求めてくれる人もいます。獣の命をいただくことで「害」ではなく「資源」として回していく。そんな「循環」を作れるのではないかと考えるようになりました。

新・田舎で働き隊の任期である3年が終わると、NPO法人の職員となりました。そこでも変わらず、獣害対策と狩猟体験ツアーの企画を続けました。徐々に循環の仕組みをつくりたい思いが強まり、具体的に解体処理施設を計画し始めました。

解体処理施設が色川にあれば、獣害について気軽に考えられる「場」が生まれ、そこを起点に獣害対策やその発信を進めることができます。解体した肉を販売して「ジビエはおいしい」と感じてくれる人が増えれば、山里の問題を身近に感じてくれる人が増えるはず。狩猟免許をとる人も増えるかもしれません。さらに解体処理施設が観光資源となれば、地域の関係人口を増やすこともできるでしょう。解体処理施設を循環の「核」とすることで、資源や人、情報の循環を作りたいと考えました。

自分の思いが固まるにつれて、周りにも公言するようになりました。応援してくれる人がたくさんいることに驚きましたね。言葉にするうちに、いつの間にかやらなきゃいけない状況に追い込まれて。腹を決めて、資金集めのためにクラウドファンディングを始めました。

クラウドファンデングも想像以上の反響がありました。目標金額を大幅に達成し、解体処理施設を無事に設立することができたんです。

解体処理施設には「だものみち」という名前をつけました。「だもの」は獣を意味する「けだもの」が由来です。人も野生動物もみんな自然の一部で、けだもの。この自然の中に生きるみんなが共存できる環境を作ろうという思いを込めました。そこに、まだ道半ばという意味をこめて、「みち」という言葉を組み合わせたんです。

循環の「核」となり、獣との共存を

現在はNPO法人地域再生ネットワークの鳥獣害対策部として、色川を中心とした獣害対策に取り組むほか、解体処理施設「だものみち」を運営しています。

獣害対策はすでに効果的なフォーマットがあります。まずは住民と共に集落環境診断を実施。地域住民とともに集落を歩き、被害の状況を地図に記します。その情報を元に、課題を抽出し、次なる対策の優先順位をつけ、対策を繰り返していきます。

獣害対策において一番大事なのは、人とのコミュニケーションだと感じます。「獣はすべて捕らえるべき」「なるべくは山に返してあげたい」など住民によって考えはさまざまです。いろいろな人の意見を加味しながら話し合い、対策を作り上げることが大事です。

そのためにファシリテーターの存在も重要です。色川でも、何度か別の地域から専門家を呼んで、対策をしたことがあります。僕自身も専門家であるものの、住民の一人であるため、当事者意識が強くなってしまうからです。住民との関係性ができあがっているからこそ、言いづらいこともあります。利害関係のない人がファシリテーターとして参加して、その意見を元に住民が協力して対策をする。その流れが大事だと思います。

NPOの役割もそこにあると感じています。獣害に悩んでいる地域は色川だけではありません。各地に獣害の専門家を育成し、情報共有することで、日本全体で獣害対策を進めていきたいです。

解体処理施設「だものみち」では、鹿や猪の解体、精肉、販売だけでなく、狩猟体験ツアーを実施しています。単純な「食」のための施設ではなく、体験を重視した施設です。

キーワードに掲げているのは「循環」。まずは「資源の循環」として、獣害という課題解決のために捕獲された獣を食べる。食べられない部分はたい肥化して畑に戻す。殺生をしていることの重みを忘れず、命をありがたくいただくことを大事にしています。

そのため、お金儲けのために無理に獣を捕獲することは考えていません。私が目指すのは、獣との共存。獣害対策という課題解決のために、あくまで捕獲した獣を有効活用する。この考えは決して忘れないようにしたいですね。

それだけでなく、ツアーによる「人と情報の循環」も追求したいと考えています。ほかの地域からいろんな考えを持った人が集まることで、今までになかった気づきを得ることができます。関係人口を増やし、色川を好きになってくれる人がもっと増えたら嬉しいですね。

最近は新型コロナウイルスの影響で、現地でのツアーは開催できていません。罠を仕掛けるところからさばくまでをライブ配信し、実際の肉を参加者の自宅に届けています。ストーリーが分かることで、獣害に対する考え方が変わるのではと感じています。とはいえ、現地だからこそ分かることもあります。コロナ禍が落ち着けば、また現地でのツアーを再開したいですね。

僕にとって色川は、大きな家のような場所です。時には人とのつながりが面倒なときもありますが、ここが落ち着くんですよね。大学生の時に漠然と感じていたように、今も色川のためになりたいという思いが強くあります。

今後は「お金の循環」にも力を入れたいです。現在は補助金で獣害対策をしていますが、例えばジビエの販売で得た収入の一部を獣害対策に回すなどしてお金を回し、地域活性化にも貢献したいですね。自然と共存しつつ、施設を循環の「核」として機能させることで、色川に新たな価値を生み出していきたいです。

インタビュー:粟村 千愛 ライティング:林 春花

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another life.」からのコンテンツ提供でお届けしています。※このインタビューはanother life.にて、2021年9月6日に公開されたものです。