あのふしぎなよろこびの感覚 大森克己×千葉県浦安市

連載 | 写真で見る日本 | 20 あのふしぎなよろこびの感覚 大森克己×千葉県浦安市

2022.02.23

写真だからこそ、伝えられることがある。それぞれの写真家にとって、大切に撮り続けている日本のとある地域を、 写真と文章で紹介していく連載です。

漁業や海苔の養殖が盛んな半農半漁の小さな村であった千葉県浦安市。人々は、時に津波や台風といった大きな災害に見舞われながらも懸命に暮らしていた。1958年には旧・江戸川の水が製紙工場からの排水で汚染され、監督官庁からの中止勧告を無視して操業を続け、漁師たちとの面会にも応じない工場に対して、被害を受けた漁師たちが激怒して工場に乱入。この本州製紙工場事件をきっかけに、政府は、同年12月「公共水域の水質の保全に関する法律」と「工場排水等の規則に関する法律」(「水質二法」)を公布。しかし、浦安の漁民たちの漁業の先行きに対する不安はその後も強まるばかりとなり、漁民たちは海面埋め立てを受け入れることになる。そして1971年には漁業権を完全に放棄し、漁場であった海は埋め立てられ、いまでは集合住宅や鉄鋼団地が立ち並び、世界的に有名なアミューズメントパークには多くの観光客が集い、東京郊外のベッドタウン、観光地として栄えている。
 
どんなコミュニティも時と共に変化するが、浦安ほど日本の社会や経済の写し鏡のように変貌した街もそうそうないのではないか。そして土地とのつながりを一見感じることのない新しいファミレスやコンビニでの人々の会話や立ち振る舞いに、ふとかつての浦安、遠い昔のアウラが立ち上がる。アオヤギを剝いていた漁民の曾孫の中学生が塾帰りにパスタを頬張っているそのテーブルの後ろには、初期ルネッサンスの画家フラ・アンジェリコの作品『受胎告知』が控えている。K’s デンキの人目につかない階段の下で濃厚な抱擁を交わしている高校生のカップルは、山本周五郎の『青べか物語』に登場する海辺の小屋で逢い引きしている「助なあこ」と「お兼」の姿を彷彿させる。

「猫実」2012
「あたしあんたが好きよ」とお兼は彼の耳に囁いた、「あんた、芳野の海苔漉き小屋、知ってるでしょ、知ってるわね」
 助なあこは黙って頷いた。
「あたしあんたに話したいことがあるの」とお兼は続けた、「今夜ね、七時ごろあそこへ来てちょうだい、来てくれる、ねえ」
お兼はそっと助なあこの手に触れた。彼はびくっとなり、軀をいっそう固くし、そしてお兼の手に伝わるほど激しくふるえた。お兼はまた、あのふしぎなよろこびの感覚におそわれ、助なあこの手首をぎゅっと握ってから、それを放した。
(山本周五郎『青べか物語』 新潮文庫)
「明海」2014

人間のやることはいつの時代も変わらないのかも知れないが、街の姿は変わり続ける。いま、私が住んでいる集合住宅は、かつての海苔の養殖場であり1978年に埋め立てられた場所に立っている。『青べか物語』の登場人物がそのことを知ったら夢か魔法のように思うのだろうが、しかし、実際のところ夢と魔法と現実というものは地続きなのだろう。海岸線を歩いた散歩の帰り道、ローソンでダブルエスプレッソラテを買って飲みながらそんなことを考える。イビチャ・オシムが監督をやっていたときのジェフユナイテッド市原・千葉はよいチームだったな、とか、入船少年サッカークラブ出身の玉田圭司がつい先日引退したけれど、ドイツワールドカップのブラジル戦の先制ゴールはすごかったな、とか思い出しながら。

「ANA NH90 から浦安を眺める」2015

(本州製紙工場事件に関しての記述は浦安市の公式サイトを参照しました。)

おおもり・かつみ●写真家。千葉県浦安市に28年間在住。1994年 第3回写真新世紀優秀賞。近年の主な個展に「sounds and things」(MEM、 2014年 )、「山の音」( テラススクエア、2018年 )、グループ展に「GARDENS OF THE WORLD」(Museum Rietberg、2016年)、「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー、2021年)など。主な写真集に『サナヨラ』(愛育社)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)、『心眼 柳家権太楼』(平凡社) など。

記事は雑誌ソトコト2022年3月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。