滋賀県生まれとプロフィールに書いているが、実際に住んでいたのは4歳までだ。育ったのは大阪府なので大阪出身と書いてもいいのかもしれないが、両親はともに滋賀出身で自分のルーツはやはり滋賀だよな、という思いがある。お盆と正月にはいつも母方の実家がある近江八幡市に帰っていたし、一緒に住んでいた父方の祖父母も自分が15歳のときに滋賀に帰ったので、ふたりが住む東近江市に年に数回は訪れるようになった。
大学生になり、グラフィックデザイン科の映像コースを受講していた自分は、自分の家族を被写体としたドキュメンタリーとしての映像作品をつくる、という課題が出されたとき、すぐに祖父を撮ろうと決めた。おじいちゃん子だったから、というのもあるけれど、当時80代だった祖父は家族のなかでは順番として一番死に近い存在だったから、まだ元気なうちにその姿を残しておこうと無意識に思っていたのだと思う。畑仕事をしたりする祖父の日常を記録した。自転車で買い物に行く祖父を自分も大学から借りた旧式の50センチくらいのビデオカメラを肩に担ぎながら、別の自転車で後ろから追いかけつつ撮影したり、祖母になぜ祖父と結婚したのか、などインタビューしたりした。そのあとも祖父母の写真は帰るたびに撮っていた。毎回別れ際に見送ってくれるふたりを玄関前で撮りながら、またね、また、があるといいな、と思いながらふたりが並んだ姿をカメラに収めた。でももちろんそれがずっと続くわけはなく、いまは両親が見送ってくれるようになった。
祖父母が亡くなってからはその家に両親が暮らすようになったため、いまはそこが実家になっている。節目節目に帰省するが、それに加えて近江八幡に本社がある企業が出している小冊子の仕事が2012年から昨年まで続いたので、その近辺を撮影することが増えたため、自分とその土地のつながりはさらに強くなっていった。毎回その取材のたびに自分が知らなかった故郷の側面を知ることができ、自分のルーツを辿るような気持ちになった。
昨年は、新型コロナウイルスの影響で正月からずっと帰れなかったので、感染対策をして8か月ぶりにお盆に帰省した。そんなに期間が空いたのはここ近年ではなかったから、感慨深かった。離れて暮らす両親が心配だったし、娘と両親が過ごす時間もつくりたかった。自分が実家に通える時間は限られていることを改めて実感して、祖父母と名残惜しく過ごした日々を思い出し、この場所にまだ通えていることのありがたさを思った。