あるヒューマンカテゴリーの存在

連載 | 森の生活からみる未来 | 62 あるヒューマンカテゴリーの存在

 ここニュージーランドに移住してはや8年目。そして、ここでの“森の生活”を拠点に、世界二十数か国近くを飛び回る“移動生活”を組み合わせる、ハイブリッドなライフスタイルにも慣れてきた。


 一年の大半、9か月近くを日本以外の国で暮らしていると、国籍、母国語、人種、宗教にまったく関係のない、目に見えない「不思議なコミュニティ」が、国境を越えて存在していることに気づくようになった。


 ぼくの中ではまだ完全に整理できていないが、自分のためにもこのタイミングで一度まとめるべく、何回かにわたって書きつづってみようと思う。やっと言語化できつつある、というレベルだが、明瞭な解説ができるよう努めるので、ぜひおつき合いいただきたい。


 本題に入る前に、これまでのぼくの海外との接点を書いてみたい。


 1970年代当時の日本人にしては珍しく英語ができた父親は、頻繁に欧米に出張していた。それもあって小さい頃、海外からの訪問者が何度かうちに来ることがあった。これが、ぼくにとっての「海外初接触」であった。そういった家庭環境もあって、必然的に、ぼくの海外志向と英語リテラシーは高まることに。


 小学校5年生の夏休み、家族4人でカリフォルニアへ旅行。これが、ぼくにとって初の海外渡航となり、思えばこの旅こそが、今の「日本社会に縛られない生き方」をつくる原体験であったと言える。


 それ以来、海外留学を夢見るようになり、勉強嫌いだったぼくが、中学、高校と英語だけは真面目に勉強した。そして高校3年で、1年間の米国留学を経験。帰国後、向こうの大学に入るために、さらに英語力を高めるべく語学学校に通い、必要とされていたTOEFL650点を獲得。


 だがその直後、海外で生きていくうえで、実は、英語力以上の武器となる“日本人スキル”と“日本リテラシー”を、まだ十分に身につけられていないことにぼくは気づく。


 計画を変更し、まずは日本の大学へ進むことを決意。受験勉強をまったくしていなかったため、1年浪人するが、英語以外の科目の偏差値の低さはカバーできず。やむなく英語力だけで入学可能な大学4つだけを受験。結果、その中の獨協大学英語学科にだけ合格。ここは当時、英語、面接、小論文だけでの受験が可能だった。ラッキーだった。


 大学生活を送る中で、ニュージーランドへの移住の夢を抱くように。


 その後15年間勤めたレコード会社でも、レコーディングや撮影のための海外出張や、海外のクリエイターとのやりとりも多かった。


 幼少期から、39歳でニュージーランドへ移住するまでの、これらのさまざまな「海外体験」こそが、現在のぼくのライフスタイル、思考法、人生哲学をデザインしていると言えるだろう。そして、この我が半生記にわたっての“海外との接触”の中で、前述の「目に見えないあるコミュニティ」の存在に、徐々に感づくようになってきてはいた。


 しかし正直、移住前は、今よりもっと曖昧で、ボンヤリとしかとらえることができていなかった。


 言葉を換えると、ある“ヒューマンカテゴリー”とも言えるようなその存在は、一定の「生活志向」と「コミュニケーション方法」を通してつながり、形成されている。


 次回から、そのことについて詳しく検証していきたいと思う。

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