「誰もしない仕事なら、あなたがするべきよ」現在愛媛県西条市で居酒屋を営む小森隆一さん。かつて30代で脱サラ移住を決意し、次なる生業を「林業」と定め動き出した。しかしながら受け入れ先がなかなか見つからず落ち込んでいた時に背中を押してくれたのが、冒頭の妻・陽子さんの言葉である。ダイビングのプロライセンスを持つ小森さんは外資系企業でのサラリーマン時代を経て、一家四人で四国のてっぺんへと移住した。海から山への思いとは。脱サラ移住の先輩に話を聞いた。
子供の頃の遊びは無人島サバイバル 海を愛する少年はプロダイバーになる
愛媛県西条市内で居酒屋を営む小森隆一さん。かつて30代で脱サラ移住を経験した。
ダイビングのプロライセンスを持つ小森さんは、やがて海に潜る仕事から陸に上がり、外資系企業でのサラリーマン時代を経て、一家四人で四国のてっぺんへと移住した。
脱サラ移住の先輩である小森さんに話を聞いた。
小森隆一さんは九十九島をはじめとする208の無人島数を持ち、また旧日本海軍の軍港として栄えた長崎県佐世保市に1967年生まれた。
現在54歳。軍人であった曽祖父を持ち、小売店を営む家庭に生まれ育った。
海はごく自然に身近にあり、近所の友人らとの無人島での遊び・・の域を超え、魚介を採り、火を起こし、ご飯を炊くような経験。半ばサバイバルが心の原風景だった。
料理にも興味を持ち「国際船のコックとなり世界中に友人を作ること」を夢見て船乗りを目指したが「君の英語の成績では無理だ」と、当時の高校の方針によってあえなく文系の道へ転身する。
福岡の大学に進んだ頃、世はバブル全盛期。
社会に自分がどう役に立てるのか、答えが見つからず休学し、できたばかりのワーキングホリデー制度を活用してオーストラリアへ放浪の旅に出る。
半年ほどはケアンズで暮らし、そこで出会ったダイビングに魅了され、プロダイバーの資格を得た。
現地ではバブル期の日本とは全く違う、環境問題に対する人の姿勢に衝撃を受けた。
小森さん「日本に帰ってきた後、周囲の学生が何を目的に生きているのかわからなくて。まるでつけっぱなしのテレビを見せられているような感覚になりました」
帰国し復学したものの、1年弱の海外生活を終えた目には日本がさらに退屈に写ってしまったという。
卒業まで過ごすのは苦痛だと大学を中退し、海に関わる仕事として、福岡でダイビングインストラクターとして働き始める。
転職先は外資系企業 脱サラ移住を決めた訳
自らの原風景であり、また職場でもあった海に違和感を覚えたのは、1993年。
数年前に家業が倒産し借金返済の必要があったが、海の仕事だけではままならず出稼ぎのため名古屋に住んでいた頃だ。
平日は様々なアルバイト、週末はダイビングという生活の中、名古屋のお客さんを連れて日本海に潜っていたある日、磯焼けして藻場が少なくなり、濁った海に驚きを隠せなかった。
同僚とともに不穏さを覚えたが、海と山との関係性にはまだ深く思いは至らなかった。
振り返るとダムの大規模な放流が原因だったのではと推測しているが、定かではない。
借金返済に奔走し過酷な毎日が続いたが、それも一段落すると当時名古屋に進出予定の外資系外食産業の企業に就職する。
サラリーマンとして選択した就職先企業には、これまで慣れ親しんだダイビングの組織にも通ずる外資系故の合理性があった。
海ともうひとつ、幼少から関心のあった「食」に携わることができ、ベンチャー精神に溢れ、経営者を育てるという社の理念のもと、人材育成を学び、新規店舗開発に勤しむ毎日。
収入も安定し、オーストラリア時代に知り合った女性と紆余曲折を経て結婚。一女一男を設け温かな家庭も手にしたが転機はほどなくやってきた。
小森さん「良い会社でしたけどね。でもそろそろ次に進みたいと何度伝えても、新規事業を任せられたり、次々に新しいタスクを与えられて、簡単には辞めさせてもらえなかったけど…」
と当時を回想する小森さんに訪れた心境の変化の一つは、多忙な生活への反省だ。
仕事に忙殺され家族と過ごす時間の少ない毎日を脱したいとの思い。
そしてもう一つは外資系企業故の合理性から生じる大量消費社会への疑問だ。
小森さん「コストを下げるために商品をたくさん売らないといけない。例えば什器はモノが売れなかったらそのままゴミになる」
そのことに矛盾を感じた小森さん。常に頭の片隅にあった海への思いが結びつき、海に流れ込む川の源、山に関わろうと林業の道に進むことを決意する。
海の底から一転、山のてっぺんへ
一家での移住のため、当初は当時の住まいから近い山を探したが、なかなか募集に辿り着くことができなかった。
日本全国を広く探したが、とある県の担当者には「うちでは林業のリンは淋しいのリンと書くんです。低賃金で仕事はキツい。こんな仕事は誰もしないでしょう」と諭され、肩を落とした。
ひどく落ち込んだが、妻・陽子さんに「誰もしない仕事なら、あなたがするべきよ」と励まされ、再度奮起した。
ようやく出会ったのは36歳の時、四国・西日本最高峰の石鎚山のほど近く、高知県旧本川村(現いの町)だった。
小森さん「スーツを着て面接に行ったら笑ってくれました。夜また来て、と言われ不思議がっていたら、すでに宴席が用意されていて驚きました。高知の温かさを感じましたね」
小森さんはその時のことを笑うが「自分が求められている」と感じるには十分だった。
宵の口で陽子さんに電話をかけた。「ここにしようと思うんだけど…」「いいんじゃない?」電話口から漏れる安堵の声に、陽子さんはなんだか楽しそうと思ったとか。
求めた山の暮らしで社会に貢献する
海から山へ。山の人の気質は海の人のそれと比べ開放的とは言えなかったが、何かあれば酒を酌み交わす高知の人柄に惚れ周囲に馴染んでいった。
収入は1/5になり、中山間の暮らしはこれまでに比べ不便そのものだったが、求めていた環境の中で、都会育ちの陽子さんも薪で風呂を沸かすまでになった。
林業に従事して2年、周囲の信用も得た小森さんは、移住時にお世話になった林業会社の社長から、町営から指定管理者制度に移行する山荘の管理人にならないかと勧められる。
海を思い山を整備する立場から、山を訪ねる人と交流し共に未来を考える立場への転身だった。
施設の都合で一時閉館するまでの11年間、山荘は多くの人に支えられ、愛された。
小森さん「自分の欲ではなく、人の役に立つ、社会に求められることをすることに幸せを感じますね」
小森さんの山への脱サラ移住は、海から感じた地球環境への思いと、自然環境を意識した暮らしで社会に貢献するという思いが心を突き動かした結果だった。
施設は休館したものの、山荘時代に知り合った人からの頼みを聞くかたちで山を降りた小森さん。
現在は愛媛県西条市内で高知の地酒やカツオの叩きを提供する居酒屋を営んでいる。