金属と羊
「鉄は国家なり」という言葉もありますが、鉄や銅や金や銀といった金属は、社会の中で貴重なものとされ、また生活面でも利便性の高い道具に使用され、人類の歴史とも深い関わりがあるものでした。こうした金属は古代において物々交換や贈与といった貨幣以前の経済活動に用いられる財ともなり、古代の地方豪族の墓からは朝鮮半島や大陸から渡来してきた金属製の鏡や大刀(素環頭大刀)が出土し、そのような品を保持することが地域を治める権威の象徴ともされたようです。
708年には、秩父の山中で「和銅」が発見され、朝廷に献上されたことを祝って、元号が「和銅」に改められたと『続日本紀』には記されています。具体的な場所に関しての記述はないものの、金属の神を祀った秩父市黒谷の「聖神社」から少し山の中に入った、小さな沢が流れるジメジメとした岩肌に銅を採掘した跡があり、そこが「和銅遺跡」とされています。
和銅が発見された経緯には諸説ありますが、興味深いのが「羊太夫の伝説」です。和銅を発見した羊太夫は、都のある奈良まで毎日、百余里の道を往復し和銅を運んだと伝えられ、「和銅遺跡」から北に35キロほどの距離にある8世紀の建碑とされる「多胡碑」には、「この土地に多胡郡を新設し、羊という人物に治めさせる」旨の文字が、高さ125センチ×60センチほどの大きさの石に刻まれています。
羊という人物は謎に包まれ、その詳細は不明なのですが、古墳時代の群馬(上毛野国)を研究した考古学者・若狭徹の『古墳時代東国の地域経営』によれば、「『羊』については、方角説、動物の羊説、誤字説などがみられるが、〈中略〉渡来系人物説が有力」であるとします。また羊のような首長の行いに関しては「在地首長は、新たな地域経営の技術をもたらす存在として、渡来人を招致・編成したと考えられる。その技として、まず馬生産が考えられる。〈中略〉5世紀に馬生産が開始され、初動段階で渡来人が関わったことが明らかである。加えて治水・農業土木技術が挙げられる。〈中略〉中期段階から山体部や丘陵部へ遺跡分布が広がるため、埋蔵資源・鉱山資源の探査などが渡来人によって進められたのではないかと推測している」と述べています。冒頭に述べた山の文化に関する民俗学の立場と関連して考えることもでき、大変興味深いです。
「貨幣発行益」とインフレ
飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』を参照すると、無文銀銭は、その貨幣の価値が銀という原材料の価値と等しい「商品貨幣」でした。和同開珎は、初期は銀でつくられ、後期は銅でつくられたのですが、和同開珎銀銭は無文銀銭の3分の2程度の重さにもかかわらず、その交換比率は1対1とされました。つまり和同開珎を1枚発行すれば3割強の利益が生まれることになります。原材料の価値を上回って流通する貨幣を「名目貨幣」と呼び、和同開珎は貨幣を発行することで利益を生む「貨幣発行益」を備えていたことになります。
中央銀行(日本銀行)が発行する1万円札の産金コストは24円程度。つまり1万円札を1枚刷るごとに政府は9976円の利益を得ることになります。無から有を生み出す魔法のように思えてきます。しかし前号で述べたように、物価はモノの量とお金の量のバランスで決まるので、お金の量が増えれば物価は上がりインフレとなります。政府(中央銀行)がお金を刷って、それまで100円で買えたものが103円になったとすれば、それだけ、自分たち(民間)が持っていたお金の価値が目減りし、政府に所得移転が起こったことになります。これをインフレ税といいます。1300年前の政府が国家運営資金確保のため、現在でも中央銀行によって行われている経済政策、貨幣発行益を目指して貨幣をつくろうとしていたことに僕は驚きを感じました。
ただ、和同開珎は銅銭に移行していく過程で信用を失い、その後に幾度もつくられた貨幣(皇朝十二銭)も、当時の技術で精錬できる銅を採り尽くし、粗悪な貨幣を乱発することで流通貨幣としては958年の「乾元大宝」を最後に頓挫してしまうのでした。
さかもと・だいざぶろう●山を拠点に執筆や創作を行う。「山形ビエンナーレ」「瀬戸内国際芸術祭」「リボーンアートフェス」等に参加する。山形県の西川町でショップ『十三時』を運営。著書に『山伏と僕』、『山の神々』等がある。
記事は雑誌ソトコト2022年7月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。