生物としての蚊の話を続けたい。蚊は、ヒトの祖先がこの世界に出現した数百万年前にはすでに存在していたので、ヒト以前には何を獲物にしていたのか不思議に思う向きもあるかもしれない。蚊はヒト以前、はるかの昔、恐竜時代(ジュラ紀・約1億5000万年前)にはすでに生息していた。その時代の化石に発見されることからわかる。
映画(もしくはその原作小説であるマイケル・クライトンの)『ジュラシック・パーク』を思い出してほしい。琥珀に封じ込められた古代の蚊の体内から恐竜の血を採取し、そのDNAから恐竜を現代に再生する物語だった。つまり蚊は、自分が生きた同時代のあらゆる生物を獲物として1億年以上を生き延びてきたのだ。恐竜時代には恐竜を、人類の時代には人類をターゲットとし、種類によってはヒト以外の哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類からも吸血する。そしてもっとも成功した生物のひとつとして約2500種もの蚊が現存している(ヒトは、ホモ・サピエンス1種)。
ほとんどの蚊で、血液を吸うのはメスである。血液は、タンパク質、糖質、脂質ともに栄養分が豊富なため、産卵のエネルギー源として格好の餌になるからだ。オスの蚊はおとなしく植物の汁などを吸っている。だからオスの口吻はメスに比べるとごく簡素な構造になっている。
蚊が、その口にある細いメスでヒトの皮膚を切り裂き、極細のストローを差し込み、的確に血管を探り当て、すばやく吸血するメカニズムは前回までに論じた。これはどんなに熟練した看護師の採血よりも巧みである。またいかなる医療用の注射器よりも精密な装置である。少量の血をただ吸うだけなら献血してあげてもよいが、そのあと猛烈なかゆみが起こり、またやっかいなケースでは、日本脳炎や西ナイル熱といった感染症の原因ウイルスを媒介するから、蚊はうとまれるのだ。私も博愛主義と生命尊重の立場から、なるべく殺生をしないことを旨としている(しかも、少年時代は虫オタクだったため、さんざん昆虫採集や標本づくりに明け暮れた反省もある)が、寝入りばな、ブーンと羽音を立てて枕元に刺しに来た蚊だけはどうしても許すことができない。
私たちがジュースをストローで吸うときは、肺の力(吸気)を使う。しかし蚊には息を吸う肺がない。肺ができたのは生物が陸上に進出した両生類以降のこと。それ以前から生活していた昆虫は、身体の表面から空気(酸素)を吸収できるので、進化上、肺を必要としなかった。では、いったいどうやって突き刺した微細なストローから血液を吸い上げるのだろうか。これにはまた巧みな技があり、かゆくなったり、ウイルスが乗り移ってきたりする理由もここにある。
蚊のストロー(吸血管)の先端には温度や血の味を感知するレセプターがあり、皮膚の下の毛細血管を探り当てることができると考えられる。
吸血管の内径はおよそ10〜30マイクロメートル。血球の直径はヒトの場合、7.5マイクロメートルある。だから吸血管の中を、血液と血球が吸い上げられるのは、ちょうどストローの中を、ごろごろとタピオカの粒が団子状に連なって吸い上げられるイメージである。ステンレスの注射針は細いものでも直径750マイクロメートル(1ミリの4分の3)はあるので、蚊の吸血管がいかに繊細かわかろうというものだ。
この細い管が吸血の途中で詰まると大変なことになる。だから蚊は血液の凝固を防ぐために唾液を送り込んでから吸血を行う。この唾液の中に血液の凝固反応を阻止するタンパク質や化学成分が含まれている。また、蚊がほかの生物から媒介してきたウイルスが含まれているケースがある。これらが唾液とともに送り込まれてくる。この凝固物質が異物として、ヒトに対してアレルギー反応を引き起こす。ただし、ヒトの免疫システムが異物に対して反応するのには若干のラグタイムがある。それゆえ蚊に刺されてからちょっとして猛然とかゆくなるわけだ。
さて蚊のストロー(吸血管)の仕組みを見てみよう。ストローに続く体内の部分は何段階かの袋状の部屋とくびれが連結された構造になっている。ひょうたんが連続しているようなイメージだ。くびれはバルブの役割をする。袋はポンプの役割をする。下のバルブを閉じて、その上の袋を広げると、ポンプの原理で血が吸い上がる。袋の血が溜まったら、下のバルブを開け、次の袋を広げ、血を送り込む。これを順番に行って血を消化管へと送り込むのである。蚊も必死なのだ。
皮膚に止まった蚊を叩き潰すのはよくない。その圧力で唾液や体液が逆に皮膚内に押し戻されてしまう可能性がある。できれば爪先でパッと弾き飛ばすのがよいのだが、自分の皮膚に止まっている蚊を見つけたらそんな余裕はない。