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多様性

連載 | 福岡伸一の生命浮遊

北斎 未来の絵師

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 前回に続き、江戸の天才画家・葛飾北斎について触れたい。それは人生100年が叫ばれる令和時代の今こそ、北斎的な生き方がひとつのロールモデルになると思えるからだ。

 北斎の三大代表作といえば、富嶽三十六景のうちの、「神奈川沖浪裏」(いわゆる「ビッグ・ウェーブ」)」、「凱風快晴」(いわゆる「赤富士」)、「山下白雨」(いわゆる「黒富士」)であろうか。私たちが企画した「令和元年記念 北斎展[HOKUSAI]」(そごう美術館・7月月27日ー9月1日、残念ながら本誌発売時には終了しているが、また別の場所で開催したいと考えている)では、デジタルで創造した北斎のこの3作を大画面に高解像度で再現、それぞれ大ぶりのかっこいい額装に入れて、入ってすぐのいちばんいい場所に並べてみた。監修者自らが言うのもなんだが、完成した展示会場に初めて入った時、なかなかの大迫力にしばし見入ってしまった。

 というのも、北斎版画の原版は、彫りや刷りの制約から意外なほど小ぶりなのである。26×38センチ、およそB4サイズしかない。オリジナルにはオリジナルの魅力があってよいのだが、いかにも小さく、よほど近くで見ないとディテールに込められた北斎の工夫や意匠を見抜くことができない。そこで私たちは大画面に拡大してみたということだ。

 今回の展示ではもうひとつ、仕掛けをしてみた。先に記した北斎の代表作のひとつ「山下白雨」を、さらに大判にまで引き伸ばしたメインビジュアルを掲げた。この絵は、裾野からすっと切り立つ黒々とした富士山の姿と、うっすらとかぶった雪の白い輝点が持ち味なのだが、山頂付近は晴れ渡って、渦巻雲が青空を流れ飛んでいくというのに、画面下半分は、大きな山麓が暗い褐色に沈んでおり、そこは雷雲に覆われているのか、オレンジ色の稲妻が走っているのだ。この稲妻のギザギザ模様がこの「山下白雨」のいわばアクセントになっている。この稲妻模様は、『すみだ北斎美術館』のロゴマークにもなっている。私はこの稲妻を見つめていて、ふと遊び心が動いた。今年は令和元年だ。雷を「令和」に変えてしまおう。このアイデアをデザイン会社『TSTJ』と話して、作られた特大ポスターが、今回の美術展の入り口の正面の壁にある。みなさん、これを見て笑ってください。

 さて、北斎は生涯、自分の雅名を改号すること30回、転居すること93回に及んだという。一般に知られている「北斎」の号は初期のものであり、その後、「画狂人」、「月痴老人」、「」などいくつもの名を名乗った。そして、絵を描きちらしては、部屋での収拾がつかなくなって、その度に逃げるように引っ越していたらしい。落ち着かないこと甚だしい。

 ここに北斎のけるような焦燥感を見て取ることができる。北斎は決して自分の絵の技倆に満足することがなかった。

 北斎が、「富嶽百景」の跋文に記した次の言葉はあまりにも有名だ。「己六才より物の形状を写の癖ありて半百の此より数々画図を顕すといえども七十年前画く所は実に取るに足ものなし」。幼少時から絵を描くことが好きで画家となったものの、50歳(半百)の頃はおろか、70歳になる前の絵の中にとるに足るものはない、と言っているのだ。

 現に、先に記した北斎の三大富士を含む「富嶽三十六景」は、彼が73歳のときに着手された。「富嶽百景」を手がけ始めたのは74歳である。つまり北斎の代表作は、自身が70歳を超えてから成し遂げられたものなのだ。冒頭に、「人生100年が叫ばれる今こそ、北斎的な生き方がひとつのロールモデルになる」と述べたのはそういうことである。

 我々はこれからこそ何かを行うべきなのであり、どんなことでも始めるのに遅すぎるということはない。つまり、Never too late. なのである。

 北斎は、天保13年(1842年)、現在の長野県・小布施町を訪ねた。この地で、高井鴻山から厚遇を受け、その後、ここを拠点に創作を行った。天井画「男波」「女波」は2つの逆巻く大波が並べられたもの。もはや、富士山も、船も、人も一切いない。猛り狂うような渦が、音のない音を立てて回転しているだけだ。ここには、生命がもつ創造力、破壊力、あるいは歓びや怒り、あらゆるエネルギーのうねりがこめられて、宇宙にまで届いている。最晩年、90歳を迎えた彼は、最後にこう言った。

 「天我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」

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