呆れるくらい降り積もった雪がようやく解け出して、久しぶりに地面が顔を出した。背の低い子どものような草や、たんぽぽのように横に這いつくばっていた草は、相変わらず元気そうで、むしろ雪の布団で温かったかいねと、確かに雪がなかったらなかったで、毎朝降りてくる霜のほうがいちいち堪えるのかもしれない。朝、目覚めると、窓一面に見事なつららが何本も何本もぶら下がっていて、陽が射してくるときらきらと黄金の光が揺らめいて、山にも海があることを教えてくれる。
「うおぉい。ようやっと解けてきよったな」、回覧板を手にヒロシさんが坂を上ってきた。ヒロシさんは、いつも口数が少ない。ぶっきらぼうに見えて、世に言う父親のような迫力があるので、越してきた頃は僕も緊張していた。でも、一緒に大峰山を登ったり、銭湯に入ったりしているうちに、無口に見えるだけで、ほんとうは言いたいことがあって、それはきっと何でもない、心に浮かんできた、もやもやっとした煙のようなものなのだけれど、言葉になってはくれず、最終的には「んっ」と結んだ口から漏れ出たひと言にすべてが集約される。他に言葉がないので、この沈黙が気まずく、ばばばばっと無闇な言葉を並べてごまかそうとしていたけれど、慌てずにふうっと、ヒロシさんの周りに漂っている空気を味わいたいなと思えるようになってからは、この「んっ」から、ヒロシさんの豊かな情けや心に浮かぶ多彩な色が感じられるようになってきた。「また寒くなるじょ」と手で軽く会釈して、ひょこひょこした後ろ姿が遠ざかってゆく。
この村の人たちの去り際は、いつもあっけない。「ほな」「さいなら」「ありがとう」、別れの挨拶をしたら、ぱっとその場で、その瞬間、別れたことになる。いつまでも振り返ったりしない。ただ背中が遠ざかってゆく。若い人同士でやるように、小さくなっていく姿に「またね~」と叫んでも反応がないので、挨拶のあとは気持ちを切り替えて、さっと自分の世界に戻るようになった。とはいえ、去っていった背中から、なにやらぶつぶつ声が聞こえる時があって、「ん? もしかしたら見送りに一緒に並んで歩いていると思い込んでる?」と走って追いかけてみると、「ここらの木は切ってしまわんといかんじょ。実がつかんじょ」と言うので、「そうやなあ、今度切ってみるわ。また切り方教えて」と返してみるも、そのまま歩き続けて、やはりさらなる「ほな」などの別れの挨拶もなく、黙々と去っていった。はて、独り言やったのかもしれん、いや、やっぱり見送りに一緒に歩いてると思ってくれてたかもしれん、どちらにしても、この村ではよくある風景のひとつ。
げんしょば~ば、げんしょば~ば、やまし~も~や、そっこ。今度は、一人暮らしのシズさんに回覧板を届けようと鎌ん坂を妻と歌いながらくだってゆく。裏庭からぐるり、玄関へと回っていこうとしたら、なにやら人の気配があるので、そっと覗き込むと、家の外壁の僅かにくぼんだ隙間に、小さく縮こまったシズさんが座り込んで編みものをしていた。シズさんの周りだけ、ほっこり黄色い陽だまり。なんだか、家がふわふわのお母さんのように、シズさんをすっぽり抱きかかえている。「ああ、ここだけ陽が射しよるんです。なかなか陽もないですから、あるうちに浴びとこ思いまして。編みもの言うても、編んでは解いて、編んでは解いて、なかなか進みません」。そうか、シズさんは生まれてから98年間、ずっとここで暮らしてきたんやものね。それで、こうやって、ここだけ陽が当たって、あたたかいに包まれて、赤子が陽だまりで気持ちよさそうに寝ているのに似て、なんとも、ああ、この瞬間に立ち会えてよかったなあと、ええもん見させてもらいましたと、しみじみ何かに感謝したくなる。何でもない、村のよくある風景のひとつ。
ああ、人も、僕も、誰かに何かを届けよう、伝えようと、必死になりがちだけれど。欲しいものを手に入れよう、受け取めようと、必死になりがちだけれど、もう十分にそこら中にあふれているものを、ただ受け入れるというのが、ほんとうはすべてなのではと、最近よく思う。自分に必要なものは、自分の周りにすでに揃っているということに、もっともっと気づきたい。ぶらりとどこかに旅するとき、ピアノが弾けなくなるので、そうだ、電池で動く小さな電子キーボードがあれば、どこでも演奏できて楽しいだろうなと実際に持って行ったりもしたけれど、旅先でキーボードを弾いたところで何か違うとがっかりするだけで、楽しくなったためしがない。もうここにはピアノがないのを受け入れて、この目の前に広がる、浜辺に打ち上げられた無数の石たちに触れてみる。石で石を叩いてみると、ひとつひとつ違う音がする。この石は高い音、こっちは低い音。どんどん楽しくなってきて、いろんな音の出し方を試してみる。ああ、これはピアノだな。これが僕が探していたピアノだ。ピアノだ。