メディアの予想記事によれば、医学・生理学賞の有力候補として、新型コロナウイルスに対するmRNAワクチンの基本技術を開発した、カタリン・カリコ博士の評判が高かった。確かにmRNAワクチンはパンデミックに対する切り札として、世界を救った。そして彼女の、研究者としての道のりも独特だった。1955年、社会主義体制下のハンガリーに生まれ、生物学を志し、研究者の道に進むが、一党独裁下の政府の方針で研究費が削減され、事実上失業状態に陥った。1980年代半ば、あり金をすべて娘のクマのぬいぐるみに詰め、渡米を決意した。しかし、なかなかよい研究職がなく、成果は正当に評価されず研究費の申請もうまくいかなかった。でも、彼女は自分の研究に信念を持っていた。生命の設計図であるDNAの情報は、RNAに転写される。RNAはとても分解されやすい。外部から投与されたRNAは異物と認識されて排除されてしまう。カリコ博士は、RNAに特殊な化学修飾を施し、保護剤をコーティングして生体内に投与すれば、異物と認識されず、分解からも守られて細胞内に入り、タンパク質に“翻訳”されることを発見した。これがRNAワクチンの原理となった。
十分にノーベル賞に値する業績であり、苦労人の彼女が受賞すれば、そのサクセスストーリーは話題に事欠かない。しかし、私は「まだ、時期尚早ではないか」と思っていた。ノーベル賞選考委員会は慎重だ。ワクチンは先進国ではかなり普及したが、発展途上国には十分届いていない。だから、ノーベル賞の趣旨である「全人類の幸福に貢献した」とはまだ言えない。そして、ほんとうの効果と安全性を見極めるためには、さらなる時間が必要である。
案の定、今年の受賞者は、カリコ博士ではなく、デービッド・ジュリアスとアーデム・パタプティアン両博士となった。二人は、温度と触覚の受容体の発見者である。生物は環境からさまざまな刺激を感知し、それに応じた反応を示す。視覚は光、嗅覚は匂い物質、味覚は糖や塩といった呈味物質を検出するレセプターを研究すればよい。ところが、熱い・冷たいという温度がわかる感覚はいささかぼんやりしている。さらに、触ったり、圧を感じたりする感覚は、確かに存在してはいるが、とらえどころがない。実際、なかなか研究の糸口がなかった。なぜなら匂いや味のように、物質的な基礎がないからだ。
ところが、思わぬところにヒントが転がっていた。唐辛子の辛味成分、カプサイシンである。カプサイシンは植物がアミノ酸から合成する脂溶性(水に溶けにくく、油に溶けやすい)物質で、化学構造も判明している。このように物質的に明確なツールがあると研究がしやすい。
カプサイシンをなめると、ピリピリとした強い辛味刺激の感覚が生じる。これは、「甘い、すっぱい、苦い、塩辛い、うまい」の基本五味とは異なる感覚である。感覚を伝達している神経経路も異なる。かくして、カプサイシンが結合しうるレセプターが探索された。その結果、発見されたレセプターは細胞膜を貫通するタンパク質でできていた。
通常、レセプターは、細胞の外側を向いている部分に信号物質が結合することによって活性化される。ところが、カプサイシンが結合する部位は、このレセプターの尻尾側、つまり細胞内の部位にあった。カプサイシンは脂溶性物質なので、細胞膜(これも油脂から構成されたシート)に潜り込み、細胞内部に入ったあとレセプターに結合することがわかった。唐辛子料理を食べると、最初はそれほど辛くないように思えても、あとから激烈な辛味がやってくるのは、カプサイシンの細胞内浸透にタイムラグがあるからだった。しかも、水を飲んでも辛味が消えない理由も説明できる。細胞内に入ってしまった物質はなかなか洗い流せないのだ。
そして、もうひとつ大発見があった。カプサイシンのレセプターは、なんと温度センサーでもあったのだ。温度が43度以上になると、カプサイシンが存在しなくても、このレセプターが活性化され、これが信号となって、カプサイシンのときと同じ情報が神経を通って脳に達する。英語でhotは「辛い」という意味と「熱い」という意味の2通りあるが、これは生物学的に正しかったのである。
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文・福岡伸一