パンデミックが世界を覆い尽くそうとする直前の2020年の春先、わたしは、積年の夢だったガラパゴス諸島への旅を実現することができた。ガラパゴス諸島は赤道直下、南米大陸から約1000キロメートルも離れた絶海の孤島である。実際には関東平野くらいの範囲に大小100以上の島が散在する(旅程が少しでも遅れていたら、封鎖によってどこかの島で足止めされていたかもしれない)。
ガラパゴス諸島は、「ガラパゴス化」、あるいは「ガラケー」といった言い方に代表されるように、世界の文明の進歩から取り残された場所、または、「我が道を行き過ぎて袋小路に入ってしまった者」をする言葉になってしまっているが、これはまったくの誤用である。ガラパゴス諸島は、むしろ進化の最前線にあり、現在もものすごいスピードで進化が展開されている“実験場”なのである。それには地球史的な理由がある。
ガラパゴス諸島は、今から数百万年くらい前の海底火山活動によって形成された。つまり数億年規模の歴史をもつ大陸に比べ、ずっと新しい場所なのである。最初は水も土もない荒涼たる溶岩台地だった。
やがて、風に運ばれてきた乾燥に強い植物の種がわずかながら発芽し、ときおり渡り鳥が立ち寄ることなどで、ほんの少しずつ生命活動が始まり、有機物が生み出された。そのうち海流や台風に揉まれながら、奇跡的に無傷なまま流されてきたカメやトカゲの卵が孵り、ここに棲みつくようになった。サボテンや海藻が彼らの餌となった。
乾燥に弱い生物、たとえば両生類や大型の哺乳動物はガラパゴス諸島に到達することができなかった。それゆえガラパゴス諸島の生物は広いニッチを持ち、天敵がほとんどいない。自由を謳歌し、長生きができる。このような環境で独自の進化を遂げた特殊生態系が現在のガラパゴス諸島である。
実際、この目で見たガラパゴス諸島に繰り広げられる大自然は、文字どおり、驚異と絶景の連続だった。ガラパゴスゾウガメやイグアナ、グンカンドリやペリカン、アシカやオットセイなど、生き物たちが自由自在に繰り広げている生命系はまさに「ピュシス」(ギリシャ語でいうところのありのままの自然)そのものだった。彼らは人間をほとんど恐れない。むしろ好奇心の対象のようだった。小鳥にカメラを向けるとファインダー越しに、私に向かって飛んでくることさえあった。
一方、我が身を振り返ってみると普段、さまざまな文明の利器と、ネット・AIに象徴される「ロゴス」(ギリシャ語でいうところの論理、言語、アルゴリズムといった含意)にとっぷりと浸かった、都市化された生活にすっかり慣れていたので、そこから一気に引き離されると、かなり困惑させられることになった。困惑とは、ロゴスがピュシスに直面するということである。
たとえば、私たち一行は、小舟をチャーターしてガラパゴス諸島の海域を航海したので、いきなりトイレや水の問題に悩まされた。島に上陸しても、ほとんどが無人であり、人為的行為は一切禁止である。が、徐々に、自分も生身の生物としてピュシスの動的平衡と循環の中の一員であることを感得できるようになっていった。何もない水平線から朝日が昇り、何もない水平線に夕日が沈む。夜は満天の星。星が多く見えすぎて、星座がかき消されるほどだった。
人生観が一変するような体験の中、ずっと考えていたことは、このピュシスvs.ロゴス、という問題だった。脳が肥大化した人間は、ロゴスを獲得し(その過程は、『サピエンス全史』の著者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏によれば、「突然変異」の一言で済まされるが、そんな単純な変化ではなかったはずである)、ロゴスの力で世界を構造化・相対化できた(養老孟司氏の言うところの「脳化社会」、ハラリ氏の言うところの「フィクションの力」)。そのおかげで、ヒトは、ピュシスの命じる「自然の掟」(産めよ、増やせよ)から外側に出ることができ、種の存続よりも、個の尊重が優先される社会をつくり得た。
しかしロゴスはロゴスである。ピュシスを完全にアンダーコントロールに置くことはできない。それを忘れて、快適な都市生活とグローバリゼーションを享受してきたところに、突如、漏れ出てきたのがピュシスからの“リベンジ”だった。ほかならぬコロナウイルス禍である。
結局、人間はロゴスによって人間たり得たが、ピュシスとしてのヒトであり続けなければならない。生、性、食、排泄、病、死、すべてはピュシスに属することだ。ロゴスとピュシスのあいだで右往左往せざるをえない。ガラパゴス諸島でじっくりと考えたこの問題は「ガラパゴス 生命海流」というタイトルで、いずれ成書化する予定だが、まずは、私にとっては新しい試みとして note 上で展開することにした。同行してくれたネイチャーフォトグラファー・阿部雄介氏のすばらしい写真も多数掲載する予定である。
待望の新刊!『迷走生活の方法』
福岡伸一著、文藝春秋刊
本体1980円(税込)
迷走生活とは右往左往することではなく、迷走(副交感)神経優位の生活を心がけ、ストレスを笑いに代え、免疫系を活性化し、コロナを遠ざける“let it be”な生き方をすること。帯には小泉今日子さんからの推薦文も。同時に前作『ツチハンミョウのギャンブル』も文春文庫化。いずれも軽妙な科学エッセイ。