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多様性

連載 | フィロソフィーとしての「いのち」

いのちは、そだつ

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 3歳の長男が、4月から幼稚園に通い始めた。0歳からの3年という時間を振り返ってみて、幼少期の3年を生き抜いたことだけでも貴いと思う。古来、自然も生活も厳しかった時代には3歳を迎えること自体が難しく、そうした時代の悲しみの表現でもあったと思う。死の領域に接近して生きている子どもという存在と、「かみさま」への思いを重ね合わせることで、わたしたちの祖先は共同体の絆を保ってきたのだろう。

 幼稚園は、家族という場から離れる社会生活のはじめての第一歩だ。これまでは父と母と子という最小単位での行動が基本だった。自分は父親として、無償の愛を与える存在だけに徹することを心掛けた。子どもにとっては家族が世界のすべてだ。ほかにはどこにも行き場がない。もし、子どもが親からの愛を感じなければ、生存本能として親に愛されるためにあらゆる努力をする。親への愛を求めて行われる行動は、大人になった時の性格形成や人生哲学の土台になる。愛を巡る心理的な駆け引きに、子どもの純粋な生命エネルギーを浪費させたくないと思った。

 人生は長いようで短い。人生において「自分」という巨大な謎に挑むためには、「いのち」の根底に、ただ生きて存在しているだけで十分だ、という生命哲学を愛の力と共に「いのち」の核に強く深く刻み込む必要がある。親ができることは、本当はそうした単純なことに過ぎない。自分という存在の根本が揺らぐと、知識も愛想も笑顔もすべて人工社会を生き抜く"処世術のカタログ"に堕してしまうから。

 家族という閉鎖された関係性の中で、家族の場が安全な場であることだけを意識した。生命エネルギーを爆発させる化学反応の器として。

 

 そしていま、3年生きた彼は幼稚園に通い、人生の次のステップとして「社会の縮図」へと足を踏み入れようとしている。

 敵なのか味方なのか、正体の分からない他者の場に放り出され、新しい場の中で、他者との距離感を学ぶ。どこまでが相手に踏み込んでいい距離なのかを実地で学ぶ。他者の顔色や反応を窺いながら、自分の尊厳を見失わないようにしながら、遊ぶという純粋な行為の中で、人と人とで織りなされる社会の原形を学ぶ。

 戸惑いながら新しい場に踏み込んでいく子どもの様子を見ながら思う。こうして誰もが社会へと入る第一歩があり、楽しいこともあれば傷つくこともある。だけれども一人では生きていけないからこそ、互いに肩を寄せ合い、互いの距離を尊重しながら、「愛の本質」を学んでいくのだ、と。愛の本質は距離だ。嫌いになったら好きになる距離まで離れればいい。相手を嫌いになっているのは、距離が近すぎただけだ。人は、そうして個人のプライベートゾーンという見えざる場をせっせと育み、互いの場を尊重し合うことで、新しい個や新しい場も創造できる。子どもだけではなく大人も、そうした一歩を踏み出した歴史がある。

 子どもが泣いたり叫んだりしながら他者から学び、社会の縮図を学ぶ。それが、泥だらけになり傷だらけになりながら、いのちがたくましく育つ姿を見て、思うこと。

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