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多様性

連載 | テクノロジーは、人間をどこへつれていくのか

デジタルアートの成果

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 テクノロジーの発展とともに多くの仕事が機械に取って代わられる未来の社会においては、人間の創造性が大切になる。そんな未来のために、同じアート空間の中で自由に身体を動かし互いに影響を与えながら、共同的で創造的な「共創」体験の場をつくる。デジタルアートを牽引するチームラボが世界各地で開催する「チームラボ 学ぶ!未来の遊園地」のビジョンだ。このチームラボがオープンした世界初のデジタルアートミュージアム(東京・お台場)は、面積が約1万平方メートルというスケール感のある施設。「作品と作品」「作品と鑑賞者」「自己と他者」の境界線をなくすことで、鑑賞者も作品の一部となって溶け込んでいく。

 このデジタルアートミュージアムのオープン前、チームラボ代表の猪子寿之さんにコンセプトを聞いてみたところ、館名にも採用されている「Borderless(ボーダレス)」がキーワードであった。作品が能動的に動き、存在する場所が固定されない。作品が作品とコミュニケーションをとり、鑑賞者との距離もない。没入感を共有し、鑑賞者同士に一体感がもたらされる。デジタルなアートゆえに実現できる、まさに境界線なき世界。

 「○○○×デジタル」や「デジタルなんとか」という、デジタルを接合した新語が増殖している。「デジタルトランスフォーメーション」は、ITが人間の生活をよりよい方向に変化させるという概念だ。ITが広義のテクノロジーに拡張して生活目線の事象が増えると、生活者にとってのトランスフォーメーションも実現するのだろうが、いまのところは企業における業務プロセス改善の意味合いが強い。「何でもかんでも“デジタル”をつけちゃってさあ」という揶揄をよそに、デジタルが何かをどこかへ動かそうとしている。物事は、常に新たな何かに脱皮すべく外皮を剥がされる。デジタルは、外皮を剥がして変化を叶えるための手段なのだ。

 紙が電子化され、表示がスマートフォンのディスプレイ経由になっただけのようなものもあるが(携行しやすくなっただけでもメリットは大きいのだが)、「どこかへ」が近所すぎやしないか?と個人的には物足りない。デジタルがはるか遠くへ動かし、新しい何かと出合えることを期待してしまうのは、SFにときめきを覚えた少年の心のようなものか。それとも、あくなき進化に対する人間の本能か。

 では、デジタルアートはアートをどこへ動かそうとしているのか。これまでのアートとは違う何になろうとしているのか。

 近世・近代美術は王侯貴族、現代美術は富裕層が主な担い手となり、市民と相応の距離があった。現代アートあたりは、そもそもの定義自体が難しい。現代アートの父と称されるマルシェル・デュシャンが1917年に制作した『Fountain(泉)』という作品がある。磁器の男性用小便器を横に倒し、架空のアーティスト“R.Mutt”のサインと年号を施してタイトルを付けただけのものだ。これを無審査の展覧会に出品しようとしたものの、展示を拒否されてしまう。

 デュシャンは、無審査を謳いながら出品を拒否する矛盾、芸術の権威主義を批判した。芸術の可能性に一石を投じると同時に、解釈や価値認識の難しさをわにした作品だと言えよう。多様な顔を持ちながら、総じて敷居が高いものとして存在してきたアート(芸術)。鑑賞を真に楽しむためにはある程度の知識が求められ、崩そうにも崩れない高尚な佇まい。アートを境界線なき世界へ導いたならば、デジタルアートがアートを動かしたことによる成果だ。作品と鑑賞者、作品と作品の距離を縮め、参加するものが一体化する。鑑賞している意識も、難しい解釈も不要。アートにつきまとう壁が取り壊されたことで得られる没入感は、生き生きと熱中している幸せな状態「studious(ステュディオス)」である。

 むやみやたらにデジタルで掛け算することが幸せにつながるとは限らない。ただ、人間は未来へと向かい、既成のものを変えてみたくなる好奇心や向上心を捨てられない。未来は曖昧であっても、少しでも幸せな状態を求めて生きている。デジタルアートは、人間に“ステュディオス”を提供するアートの進化。僕はそう考えている。

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