MENU

人々

【水野誠一 特別インタビュー】創業者の息子、フジテレビを語る<前編>~親父は僕にフジテレビを継げとは言わなかった~

水野誠一

水野誠一

  • URLをコピーしました!

フジテレビが揺らいでいる。第三者委員会が調査を始め、社内では若手・中堅社員が改革委員会を立ち上げるなど収束に尽力するものの、離れたスポンサーはほとんど戻る気配を見せない。いったいこの放送局の経営はどのように始まり、どう変わっていったのか。

ソトコト総研の代表で株式会社IMA(インスティテュート・オブ・マーケティング・アーキテクチュア)代表の水野誠一の父・水野成夫は、社会運動の闘士から転向、財界人となり、フジテレビの創業を果たした人物。フジテレビはどんな志で生まれた局だったのか。まずは創業の経緯とその後の支配の変遷を創業者の息子・水野誠一が自らの目で見てきたことを語る。

目次

共産党員から経営者への転向。水野成夫がメディアに関わったきっかけは再生紙だった

—— 水野さんは長らく西武百貨店に勤め、最後は社長でいらした。ところが水野さんのお父様である水野成夫さんは流通とは関係なく、フジテレビの創業者であったと。この水野成夫さんがどういう人で、なぜフジテレビをつくったのか、まずは伺いたいと思います。

水野誠一さん(以下、水野) 水野成夫は、もともと静岡の小笠原郡佐倉村の生まれです。水野家はかなりの名家で豊かな家でしたが、年齢の近い兄がいて次男だということで、成夫は里子に出された。それも貧しい小作人の家に預けられたのです。そこで彼は貧富の差を身をもって感じます。幼くして世の中の不条理を知った。

成夫はその後『二人の母』という小説も書いています。何冊かフランス文学の翻訳もし、文学者としての素養もある人だった。その世の中の不条理というのが、彼の生涯でひとつのテーマになっていくわけなんだけれども。

その後、大正10年、1921年に帝大、今の東大へ入学し、学生時代から社会運動に関わっていたようです。

—— 当時の知識人としては共産主義を学ぶことがひとつの嗜みみたいな風潮はあったようですね。

水野 そう、かぶれたんですね。ハシカのようなものですね。成夫は共産党の中央書記まで上がって、中国共産党の視察にまで行っています。ところが行ってみたら、スターリンが威張っていた時代で、それを見て、共産主義といえどもひとつ間違うと、結局、独裁主義になってしまうんだと。社会のために公正公平である思想とはまるで違うじゃないかと。それでがっかりして帰ってきたら、3.15という共産党員の大検挙があって、投獄されたんです。彼はもう既に何か「違う」と感じていましたから、獄中転向をしました。共産党を離れたんですね。

—— その後、成夫氏が経営者となっていくきっかけとなったのは何かあったのですか。

水野 時代が昭和になり、第二次世界大戦に向かっていくなかで、パルプの輸入も減少し、紙資源の確保というのがひとつの課題になっていたんですね。国策としてパルプを確保しなくてはならないという状況だった。そこで南喜一という親友が再生紙を思いつくんですね。これを成夫と共に研究した。やがて先輩の宮島清次郎に担ぎ上げられるような形で「国策パルプ大日本再生製紙」という会社の役員になったようです。それが成夫が経営の道に入った経緯です。

—— 『水野成夫の時代』(境政郎・著、日本工業新聞社刊)を読むと、古い新聞が雨に打たれてインクが溶け出したのを見て……という話が出てきます。

水野 そうそう、新聞を煮出してインクを浮かせてからパルプにするっていうね。だからそういう、サステナブルな挑戦を先駆けてやった人だったんですね。結局、当時のメディアはまず新聞ですから。そのあたりから、メディアの仕事につながっていくんですかね。

文化放送の水野とニッポン放送の鹿内で、フジテレビを創業へ

—— 水野成夫さんは、最初は文化放送の社長をされたようですね。

水野 文化放送はもともとキリスト教の布教のためにつくられたラジオ局だった。なかには社会主義的な人も多くて、労働争議が盛んでどうにもならないときに「水野さん、あんたもともと共産党員だったんだから、何とか収めてくれ」となったようで。その後、産業経済新聞の立て直しで、前田久吉さんから引き継いで社長になった。経営者と労組というのは衝突しがちなもので、両方の立場を知る成夫がバランスをとる役目を担わされることが多かったんですね。どちらかというと、当時は左寄りの新聞が多いなかで、右寄りの、財界御用達の新聞をつくってくれと、成夫に白羽の矢が立ったのでしょうか。

—— その後、テレビの時代が始まるんですね。

水野 文化放送の水野成夫と、ニッポン放送の鹿内信隆がつくったのがフジテレビだった。だから当時は財界の応援を得てつくられたんだと思います。

—— 当初のフジテレビの理念というのを、水野成夫社長はどのように考えていたのでしょう。

水野 僕の父はメディアを支配できるなんていうことは興味がなかったようです。会社として自分たちがその株をもって支配するなんていうことは考えてもみなかった。その当時からメディアというのは公明正大であるべきものなので、私有化すべきではないという確信をもっていたようです。

鹿内さんがどんどんフジテレビの株を買い集めていっても、父は株を増やさなかった。やがて水野成夫は病気になったということもあって、一線を退きました。そこから鹿内家の独占が加速していった。僕の親父は73歳で亡くなりました。

—— 成夫さんは水野さんにフジテレビに入れとは言わなかったのですか。

水野 亡くなる前に僕を呼んで「オレはおまえに財産も残さない。仕事も残さない。だから心しておけ」と言いました。僕は親父の仕事を継ごうなんて思ったことはないし、ましてマスコミの仕事に興味がなかった。だけど「金も仕事も残さないんじゃ困るじゃないか」と冗談混じりに返したら「オレはおまえにトクを残す」と。「どのトクだよ」と聞いたら「人徳の徳だ」と。「え〜、人徳じゃ食えねえな〜」とそのときは思いました(笑)。

—— いえいえ、無形の一番大事なものをくださったかと思いますよ。

水野 親父は小説も何冊か書いているし、作家の友人も多かったので「出版社に入れ」と言いましたね。本当に自分たちの考え方を世の中に伝えられるのは出版界だと。でも僕は当時、堤清二がやっている西武百貨店が面白いと思っていたんですね。そうしたら、親父は堤さんのことを理解できなかったのかもしれない。「行儀は良いが、何を考えているか理解できない」と言っていましたから。

親父は「それなら東急の五島さんのところへ行け」と言っていましたね。大学のゼミの教授も「西武なんて三流だから、百貨店に行きたいなら三越か伊勢丹へ行け」と。でも百貨店に行きたいのではなくて、大きな可能性を持っている堤清二のところに行きたいのだ、と言って思いを貫きました。26年間居て最後の4年間は社長を引き受けたものの、バブルの崩壊期かつ前任の社長の後始末で相当に苦労しました。4年で目処を立てて辞任しました。

ともかくフジサンケイグループとは縁がなかった。ただ、鹿内信隆一族が支配している姿にはとても違和感を感じていました。というのは、西武の社長時代、経団連の新年会で年に一度、どうしても信隆氏と出会うわけ。向こうも成夫の息子だとわかっているけど、見て見ぬ振りをする。僕からも絶対に行かなかった。

それが何年かして、信隆氏が僕のところへ駆け寄ってきたことがあったんですね。それは息子の鹿内春雄氏が急死した翌年でした。僕に「誠一くん、元気ですか」と。僕も「春雄くんのことは残念でしたね」と慰めました。そうしたら「ともかく君は健康に気をつけてください」と。父に対する罪悪感は持っていたのでしょうね。

日枝さんは水野成夫の薫陶を受けた最後の人間!?

—— 世襲はもはや最大の企業の私物化ですからね。

水野 そうです。その後、銀行員だった娘婿に後継をさせる。彼は鹿内家の養子になった。彼が議長になったとき、クーデターが起きた。その立役者が現フジサンケイグループ代表の日枝久氏です。そのときは、日枝さんから「ついに鹿内家を駆逐しました」という報告がありました。僕は「うちの父と鹿内さんとではものの考え方は全部違ったと思うけれど、そもそも、メディアは国のため、国民のためのものという思いはあったはず。私利私欲でメディアを私物化するような経営はしないでくださいね」という言葉を贈ったんですが、今日の有様とは……。     

—— 日枝さんとはその後、親交はあったんですか。

水野 日枝さんは「僕は水野成夫の薫陶を受けた最後の人間だ」と言っていましたからね。何度か会いました。最後はホリエモンと村上ファンドが組んで、フジテレビの親会社だったニッポン放送の株を買い締めようとした頃ですね。僕はその頃、もう西武百貨店を辞めて新生銀行の顧問をしていました。それまで金融界とは関係のない人間でしたが、八代政基会長が面白がって受け入れてくれた。その八代さんから「水野さん、日枝さんを紹介してくれませんか?」と頼まれたんです。

八代さんは「フジが証券会社にコンサルを頼んでも儲けられるだけで、フジにとって有利なディールをアドバイスできるとは到底思えないので、新生チームに是非やらせて欲しい」ということでした。そこで日枝さんにつないだんですよ。でも結局、日枝さんからは「D証券を外すわけには行かない」と。それ以来、日枝さんとは付き合いがなくなりました。証券会社とホリエモンを儲けさせただけで(笑)。

またホリエモンを社長にしたらとか言っている人たちがいるの? 当時も、テレビとインターネットの乗り入れによって相乗効果が出るなんて言っていましたから、目端の効くヒトだとは思うけど、それだけじゃね。

<後編へ続く>

インタビュー/構成:森綾  http://moriaya.jp/

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね
  • URLをコピーしました!