現在、東邦レオ株式会社代表を務める吉川稔は、バブル経済の最中、銀行員だった。彼にシンポジウムに招かれた西武百貨店社長の水野誠一は、そこで「30年後、百貨店の売り上げは半減する」と予言した。その水野誠一の言葉に、吉川稔はいったい何を感じ、ファッション界へと転身していったのか。前編は、吉川が「リステア」に行き着くまでの話である。

大丸VS西武。百貨店ますます隆盛というシンポジウムのはずが
水野 初めて出会った頃、吉川さんはまだ神戸で銀行員をされていたんですよね。
吉川 はい。まだまだ入社2年ぐらいですよ。
水野 そのとき、僕がちょうど西武百貨店の社長になってしばらく経ったタイミングだった。
ある日、秘書室から「住友信託銀行の吉川さんという人から、神戸で大丸百貨店の長澤昭さんと対談をしてほしいと連絡があったんですが」と言われたんです。
なんでも顧客に向けて、百貨店のこれからについて展望を話してもらいたいと。
吉川 まさにお願いしたのが僕ですね。
水野 普通だと、そういう案件は広報に来るんですよ。そうすると、広報は相手が媒体でなければ、断っちゃったかもしれない。
ところが秘書室から直接僕に来たので「面白いじゃない。そんな銀行の若手社員が自ら企画して、顧客に聞いてほしいなんて」と。対談のお相手、長澤さんは僕の業界の大先輩だった人だから、お相手としても名誉な話だった。
吉川 1991年のことですね。
金融はもうバブル崩壊の変調はありましたが、百貨店は絶好調だったんです。神戸大丸は、居留地をリニューアルして大成功していましたし。
百貨店の売り上げはもうとんでもなく大きな数字を毎年叩き出してた頃ですよ。高いものが売れて売れてしょうがないという。
水野 だから、これからの百貨店は隆々たるものですという話をして欲しかったんでしょう。
吉川 そうです。500人近い顧客が会場を埋め尽くしていました。
僕も含め皆さん全員が「これからさらに百貨店が増え、街づくりには百貨店が主体になって、全国の街を百貨店が作っていくんだ」という話を想定していて、だからこそお二人の話を聞こうという対談イベントだったんですね。
水野 ところが、僕はその空気読めなくて。いや、あえて読まなかったのかな。
「百貨店はあと20年後とか30年後には、おそらく売上げが半分ぐらいになりますよ」と言った。
当時、全国で百貨店の総売上げは10兆円ぐらいあった。
ところが、こういうこと申し上げちゃ悪いんだけど、おそらく20年、30年後っていうのは、もっと業態が様々に変わっていって、百貨店の売上げというのは多分半分ぐらいになってるという、予測を話したんです。 それで吉川さんは、目が点になっていましたね(笑)。
百貨店から専門大店の時代、コンセプトの時代へ
吉川 オーディエンスはがっかりでしたが(笑)。
僕が水野さんの言葉から受けた衝撃はすごかったです。
あのひと言が、僕の人生を変えました。今の僕に至る大きな影響がありました。
当時、僕はまだ25歳の銀行員でした。
実はその頃、たまたま銀行の人事異動で、神戸でファッションをテーマに仕事をすることになった時期だったんです。でもファッションなんかやったことがなくて、僕は繊研新聞から何からいろんなメディアの資料を読んで、勉強中だったんです。
それで、僕はもう付け焼き刃で「これからは百貨店の時代だ」と。
もちろん、僕は地元が神戸だったので、大丸の力は感じていたんですが、どうやら東京では西武百貨店、セゾングループのパワーがすごい、と。ちょうど六甲アイランドも、西武の力で、いろいろやろうとしていたんです。
それで僕は銀行の上司に、「これから不動産開発のメイン・コンテンツは百貨店だ」と、対談の企画書を若気のいたりのようにもっていったんです。
ところが「そんなの絶対出てもらえないよ」と言われました。
でも僕は若かったんで「いや、そんなことないです。直接お願いしてみます」と連絡したんです。
ただ、その時の対談は、水野さんのひと言で、企画の趣旨とは完全に逆の内容になってしまいました(苦笑)。
水野 ちょっと先まで読みすぎたね(笑)。
吉川 91年の話だから、まさに今の百貨店の状態を大予言されたことになります。
水野 実はそんな話をしたことを忘れてしまっていました。
数年前に坂口真生さんが関係していた「ROOMS」という展示会で、吉川さんと再会した時に、あなたから言われたんだよね。
その頃インバウンドが加わったので、百貨店業界の売り上げは10兆円の半分の5兆円ではなく、かろうじて6兆円はあったけどね。
僕も冴えたこと言ってたんだな、と思いました(笑)。
しかし、大変ご迷惑をおかけしました。
吉川 いえいえ、僕はそのおかげで方向転換ができました。つまり「街がどんどん開発され、百貨店が増えて高級化すればいい」という当時の銀行の考えに疑問をもつことができたんです。なんで半分になるんだろうか、という問いを自らに立てかけることができた。
おっしゃっていたのは、百貨店というものがもっと専門化して、専門大店になっていくということだったかと。
もっとコンセプトとかテーマ性が明確なものとかになっていく。
水野 そうです。もう一つはネットで売るという時代が来るということ。
だから、百貨店という中途半端な業態はこれからは伸びにくくなってきて、そういう利便性のあるネットか、専門性の高い店に取って代わられるだろうと。
吉川 まさにそうなりました。 僕は、水野さんの言葉から、29歳で銀行は辞めて、その後に起業して、まさにファッションの世界に入るんです。もともと個人的にファッションが好きというわけではなかったんですが、水野さんのひと言に、可能性はあるなと思った。それで、セレクトショップをやることになりました。

ファッション業界の人とは違うファイナンスの仕組みをつくる
水野 吉川さんが立ち上げたセレクトショップは、リステア、でしたね。
吉川 はい。社長の高下さんが立ち上げる「リステア」に関わることになり、経営を担当していたんですが。
「コンセプトを絞ったものがこれからは多様に出てくる」と水野さんがおっしゃった言葉のひとつを実現したわけです。
あのときおっしゃったのは「一般大衆っていうものは存在しなくなる」とか「みんなが同じものを求めるのではなく、もっと嗜好性が多様になる」ということでした。
そこで出した自分なりの答えは、百貨店ではできないセレクトショップという業態だったんです。
ラグジュアリーブランドのショップを並べて売るのではなく、全部ミックスしたような新しい業態を開発したらいけるんじゃないか、と。それは「新しい百貨店を作る」というコンセプトにしたんですよね。
水野 銀行にいた人がファッション業界に飛び込む。しかも自分でセレクトショップを作るなんて、勇気と同時に資金も必要だったでしょう。
それはどうしたんですか。
吉川 今思えば、勇気というより、思い込みでした(笑)。
今なら絶対怖くてやらない。当時は若さゆえの「自分には何かやれるのではないか」という思い込みでやりました。
それと、高下さんというファッションに長けた方と一緒にやればできるな、と。
資金に関しては、自分なりに起業して投資会社を作って、お金を集めながら、新しいベンチャーとしてやりました。
そのファイナンスは、銀行員だったからというよりはベンチャービジネスのファイナンスを勉強していたので、自分なりにファッション業界の人とは違うファイナンスの仕組みの作り方をしたわけです。
水野 そこが吉川さんの強みですね。
ゴールドマン・サックスあたりと組んだのですか。
吉川 はい。そことジョイトベンチャーを作ってやりました。
水野 あのしたたかな会社を巻き込むなんて、相当な説得力が必要だったと思う。
吉川 僕がそこに長けていたというか。
当然ながらもともと僕はファイナンスの仕事をやっていたので、彼らと言語や価値観に共通するものをもっていたんですね。ファイナンスの世界の人たちと言語は一緒だったけど、彼らは彼らで、当時は「ブランドビジネスというものが不動産に与えるインパクト」をわかっていなかったんです。
そこを説得したことで、興味を持ってくれました。
それとその前にもうひとつ、当時のグッチグループ、今のケリング・グループと、バレンシアガジャパンを一緒にジョイント・ベンチャーで作っていたという経歴も大きかったですね。
だから、一方でゴールドマン・サックスというアメリカ型のファイナンスのシステムと、一方でラグジュアリーブランドの経営スタイルを両方わかっていたからできた。
もしも、僕が最初から百貨店に就職していたら、思いつかなかったでしょう。
真っ暗で接客なし。そんなリステアに三井不動産は賭けた
水野 リステアの六本木ミッドタウン店に初めて行ったときは驚きましたよ。
真っ暗で、とびきりお洒落な最先端のものしか置いていない。当時、セレクトショップといえば、ユナイテッドアローズとかビームスのような、そこそこ万人が理解できるような品揃えでした。一方でここはもう、ほとんどのお客様を拒否しているような(笑)。
吉川 「いらっしゃいませ」も言わないような店です(笑)。
水野 すごいことだなって僕は思って評価していました。
ただ、これが日本でまだこの段階で認められるのかという心配もありました。
吉川 まさにあれを作ったのは2000年頃だから、早かったかもしれません。
店のなかはDJが音楽をガンガンかけて、真っ暗。
最初の頃は「商品の服の色が見えない」「音楽がうるさくて接客もよくわからない」と言われましたね。
それは自分としては、服屋をやるという感覚ではなく、デザイン系のホテルやクラブみたいにしようと思っていたんです。「新たな百貨店」ということは、百貨店さんではできないことをやろうと。
水野 ミッドタウンは三井不動産ですから、よく理解しましたね。しかも1階。
吉川 1階の入口ですからね。
僕が考えた内装は莫大な費用でしたが、すべて三井不動産持ちでやってくれました。
家賃も売り上げ歩合で。
だから、三井不動産は、あれが売れると見抜いていました。
結果、ものすごい売り上げになったので。
水野 そういう目のある人がいたっていうのはすごい。
吉川 最初は並木通りに出店したんです。ところが仕入れがまったくできない。
なぜなら、銀座には百貨店が全部あるし、直営店もあるからバッティングするんです。
その時に三井不動産の方がいらして「あなた、わかってないでしょう」と。
僕は関西から来たので、当初は高級店は銀座につくるものだと思っていた。
それで、その時に言われたのは「今度、防衛庁跡地で商業施設をやるから、そこなら全部商品が集まる。それに六本木なら、あなたたちがやりたいテイストを好むお客様たちが集まりますよ」と。
それで銀座の店を閉めた。
もともとの神戸の店も閉め、銀座の店を閉めて六本木だけにするから投資をしてくれと。
そうしたら「賭けよう」と言ってくださった。
水野 いやあ、すごいね。

六本木ヒルズの苦戦に見えたマーケットのありか
水野 実はミッドタウンの前に、僕は六本木ヒルズのオープニングの出店計画を手伝ったんです。
六本木というのは、他の競合店がない。しかし交通の便はあまり良くない。
だから、相当確かな目的を持ってくる人しかお客様はいないんです。
だから、本当に銀座や渋谷とは違うことをやらなきゃダメだと言いました。
どんな有名ブランドにしても、オリジナリティの高い品揃えがここにだけこっそりあるという売り方をしたほうがいいと。
吉川 実はあの当時の顧客戦略で見ると、商品はグローバルだけれど、顧客のうちの3分の2は港区の人でネイバーフッド。近隣のみなんですよね。
でも、ちょうどあの頃から、ヒルズ、ミッドタウンと、六本木は住民人口が増え出した。
その方々の志向からすると、リステアの品揃えはぴったり合っていたんですね。
水野 ミッドタウンにリステアができたときは、なんでこれが六本木ヒルズでやれなかったのかと悔しかったですよ。
吉川 これは裏話なんですが、六本木ヒルズができる前に声をかけていただいていたんです。
でもそれは銀座に出たタイミングだったんです。やっぱ銀座でしょ、と思っていた頃。
だから、森ビルからお話をいただいたときは、まだわかっていなかったんです。
三井不動産は、六本木ヒルズの苦戦を見て、六本木というマーケットを見抜いたのかもしれません。
水野 なるほどね。リステアの話をここまで詳しく話してもらったのは初めてですね。
僕があなたに託したメッセージがそんな物語をつくったというのは、嬉しい限りです。
撮影 谷口大輔 Instagram:@tanig_ph
構成:森綾 http://moriaya.jp/