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「ここにいることが強みになる」作曲家・佐藤望さんが佐渡へ移住した理由と島の暮らし方

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今年春、新潟・佐渡島へ移住した作曲家の佐藤望さん。自身が所属する音楽ユニットの活動をはじめ、アーティストプロデュースや映画、CMなど、関東を拠点に幅広く活動していたなかで、今“佐渡”という離島に移住した理由とは。現地での暮らしの様子とともに、話を訊いた。

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■プロフィール
佐藤望│Nozomu Sato
作曲家。神奈川県葉山町出身。昭和音楽大学作曲学科卒業。カメラ=万年筆、conteなどの音楽ユニットとして活動する傍ら、婦人倶楽部やMadame Croissantなどのプロデュースやアーティストへの楽曲提供を数多く手掛ける。そのほか、CMや映画など幅広く活躍。2018年からはソロプロジェクト「plantar」を始動。2021年春に新潟県佐渡市へ移住し、作曲活動を続けている。
目次

2021年春、二度目の佐渡移住

 音楽ユニット・カメラ=万年筆、conteのメンバーであり、婦人倶楽部などのプロデューサーを務める佐藤望さんが、再び佐渡に移住した。“再び”というのは、佐藤さんにとってこれが二度目の移住だからだ。

 最初の移住は、2013年6月。当時、会社員として働きながら「カメラ=万年筆」という音楽ユニットで活動していた佐藤さんは、あるとき音楽活動と並行して会社で働き続ける生活に嫌気が差し、突如佐渡島への移住を決意。佐渡で約1年間の音楽修業を経て、再び地元・神奈川へ戻り、首都圏を拠点に音楽活動を続けてきた。

 現在は、自身が所属する音楽ユニット以外にも、数々のCMや映画音楽の作曲を手掛ける。最近では、映画『映像研には手を出すな!』や『AWAKE』(ともに2020年公開)の劇伴を担当するなど、デビュー当時から今に至るまで、注目を集め続ける作曲家のひとりだ。

 あらゆる音楽を手掛けるなかでも、「佐藤望」といえば、別名「ムッシュレモン」の名でプロデューサーを務める「婦人倶楽部」でその名を知る人も多いかもしれない。

 「婦人倶楽部」(公式HPTwitter)は、佐渡島で2014年に結成されたポップユニット。佐藤さん自身が島で出会った婦人たちと結成したというその成り立ちにも驚くが、5人の婦人が歌うおしゃれでキュートな島の暮らしとレトロポップな世界観、そして渋谷系を思わせる軽やかで洗練された楽曲に、結成当初から音楽ファンの注目を集めた。

 昨年には過去作のサブスク解禁と3年ぶりの新曲が発表され、再び話題に。そんななか、今年5月に「移住しました」というタイトルで公開された佐藤さんのnoteやSNSは、大きな反響を呼んだ。

 長らく地元の神奈川を拠点とし、現在も東京など首都圏での仕事が多いなかで、今再び佐渡へ渡った理由とは。一度目の移住から、約7年ぶりとなる現在の佐渡暮らしについて、じっくりと振り返ってもらった。

「佐渡だったら誰も来れないだろう」と思った

ーまず最初に、2013年に移住されたときは「音楽修業」が目的だったということですが、その行き先として佐渡を選んだのはなぜだったのでしょうか。
実は、田舎ならどこでも良かったんです。当時、移住の目的を「修行」としていたので、ほかの仕事もせず、ずっと音楽の勉強をする期間というふうに考えてて。だから友達が来たりすると雑念が入るなと思ったわけです。そんなときに通勤電車の中で「佐渡においでよ」っていう広告を見て、「佐渡だったら誰も来れないだろう」と。神奈川からは遠く、船でしか行けなかったので。

ーそのとき見た広告が佐渡でなければ、全然違う地域へ行っていたかもしれないですね。
そうですね。ただ、太陽が燦々としたところはちょっと苦手で。どちらかというと神奈川より北の、少し寒いくらいのところに行こうとは思ってましたね。

ー偶然とはいえ、島での出会いから「婦人倶楽部」も結成されましたし、すごく運命的なものを感じます。
僕は神奈川県で育ったのですが、それまで県外に住んだことがなくて。地元の葉山町にも自然はたくさんあるけど“田舎暮らし”という雰囲気ではないので、実際移住してみたらもう何もかも価値観が違う。考え方はかなり変わりました。婦人倶楽部が生まれたのも、そういう佐渡での暮らしから受けた影響が大きいです。

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婦人倶楽部。メンバーは「佐渡で暮らす婦人」ということしか明かされていない。photo by saki_sadolife
ー当時、佐渡に来て一番ショックを受けたのは、どのようなところだったのでしょうか?
僕は島の中でもだいぶ山奥にいたんですよね。そこでは、野菜だとか魚だとか、周りの人からいろいろ頂くことが本当に多くて。日常ではあんまりお金の話にならないので、そういう暮らし方に驚きました。

ーしかし最初は知り合いも全くいなかったなかで、どのように地元の人と関わるようになったのですか?
もともと最初は「とりあえず行ってみるか」という感じで、家も決めずに行ったんです。それでたまたま訪れた地域の人たちが、ありがたいことにいろいろと面倒を見てくれて。「仕事も辞めて来た」と言うと、「いま柿の摘蕾の時期だから手伝って」と言われて手伝ったりしてました。

ー家も決めずにとは、本当に思い立つままに動かれてたんですね。
家を探すのも、地域の人に「どこか家あります?」と行き当りばったりでしたね(笑)。「どこでもいいんですけど」って。

ーすごい。地域の人に声をかけるのも、初めての土地だと勇気がいると思います。
僕も別にコミュニケーションが得意なほうではないんですけど……。なんでしょうね。たぶん前にも、その地域にはいろいろ変わった人がいたみたいなので、そういう人をおもしろいと思える集落だったのかな。僕のような人がふらっと来ても、「まあ、じゃあ〇〇に住め」とお世話してくれる地域の人がいたんですよね。

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佐渡の小木港。昔と変わらない港の風景が気に入っているという。

「佐渡の暮らしは最高だな」としか思ってなかった

ー先ほど「柿の摘蕾を手伝った」という話もありましたが、地域の中でお手伝いする機会も多かったのですか?
当時は、地域の方に本当にたくさんサポートしていただいてて。だから僕も、自然と周りの人の手伝いをするようになってました。たとえば古い家を解体したときに、まだ使えそうな木材や家具を運ぶから手伝って、とか。もちろん柿の手伝いもありましたし、地域で来客があったときに夕飯を作ったりとか、そういう細々したことをやってましたね。

ーそれは、地域の方から直接頼まれて?
なんていうか、頼まれるっていう感じでもないんですよね。「暇だったらちょっと来て」みたいな(笑)。僕も自分の時間が空いてれば全然行きますよっていう。

ーなるほど。ちょっと手を貸すくらいの感覚というか。
そうですね。神奈川で生活しているときは、自分がほしいサービスや物に対して、お金を支払ってそれを得るというのが普通だったと思うんです。でも、僕がいた島内のコミュニティでは、お金の話になったことはほとんどなくて。たとえば、重いものを運ぶために人手がいるってなったら、お金を払って業者の人になんとかしてもらうこともできるけど、そうではなくて近所の人にごく普通に手伝ってもらう。それで、そのお礼に「じゃあトマト持っていって」と。

ー自然な助け合いが日常に根付いているんですね。
やっぱり最初は勝手がわからない部分もありましたけど、半年ぐらい経つとその感覚がなんとなくわかってきました。

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魚の頂き物もたくさん。
ー佐藤さんが以前書かれたnoteでは「移住から戻ると尖りは削れた」という表現もありました。いま伺ったような佐渡での生活を経て、具体的にはご自身のどんなところに変化を感じたのですか?
佐渡ではそういうふうに共同体のひとりとして生活していたので、いろんな人とコミュニケーションを取らないといけなかったんですよね。でも東京で普通に働いてると、仕事以外でコミュニケーションが生じることってそんなにないじゃないですか。近所付き合いが頻繁にあるわけでもないし、あるとしても今までの友達と会うくらい。だけど、佐渡では地域の中で初対面の人と関わることが多くて、自分の話し方や表情を気にするようになりましたね。そしたら、性格とか顔つきも含めて尖ってた部分が削れたっていう。

ー周りの人から「変わった」という声もありましたか?
かなりありましたね。前より柔らかい雰囲気になってたんだと思います、1年で。

ー今回は2度目の移住ですが、7年前に佐渡を離れたときは「いつか戻ってきたい」という思いもあったのでしょうか?
当時から「佐渡の暮らしは最高だな」としか思ってなかったのですが、まだそのときは自分自身が何者でもなかったので、「音楽で何かを成し遂げたい」「有名になりたい」なんて野望も結構あって。そのまま佐渡で生活していれば毎日が楽しく過ぎるし、ただ作品を作るだけならいくらでもできる。でも、自分の地盤が何もない状況だと、佐渡にいながら大きな仕事を取るのは難しいと思ったんですよね。
だから、移住当初に掲げていた「自分の名前で音楽の仕事を1本でもとれたら帰る」という目標を10か月くらいで達成したあと、予定通り1年で神奈川に帰りました。

ー佐渡を離れてからも、島の方との交流は続いていたのですか?
僕が神奈川に戻る直前に婦人倶楽部ができたので、それ以降もメンバーと連絡を取ったり、僕もレコーディングや撮影で佐渡に行ったりはしてました。もちろんメンバーとは島にいるときからずっと付き合いがあったんですが、婦人倶楽部として結成したのは島を出るちょっと前くらいで。それから今に至るまで、ずっと良くしてくれてますね。佐渡に関わることはすべてだいたい婦人からの話だと思います。今回の移住の話の出所とかも(笑)。

2017年には、知人に誘われて佐渡島の温泉を応援するプロジェクトにも参加。「佐渡でお世話になった人のために、自分ができることをしたい」と佐藤さんは話す。

地域のことは率先してやる。そういう気持ちはあります

ーいま住まれている佐渡のご自宅も、婦人倶楽部のメンバーが知人から情報を得て、佐藤さんに教えてくれたものだと伺いました。もともと引越し先の候補に“佐渡”はあったのですか?
いや、そういうわけでもなくて。2020年の春に妻が妊娠したので、そろそろ引っ越そうと。で、もし引っ越すとすれば、猫を飼ったり、ピアノを置いたりしたいなと思ったんですが、それを神奈川でって言うと2LDKでも毎月15〜6万かかるんですよね。それってバカバカしいなと。それでも一応探してたんですけど、全然良い物件もないし、コロナだし、「もうこれどうすんの?」となってたところに、婦人倶楽部のメンバーから「家あるけど」って連絡が来て。

ーすごいタイミング。引越しのことも相談されていたのですか?
相談というか、まあなんとなくですよね。「引っ越し先探してるけど良い物件ないんで、なんかあったら教えてくださーい」と冗談ぽく言ってたら、わりとすぐ「ヤバい家があるけど」と返信があって(笑)。

ーそこで、納屋と畑付きの、建物自体もかなり広い物件の情報が送られてきたと。しかも信頼できる人にしか公開していない、非公開の情報だったんですよね。
そうですね。ただ、佐渡は「いつか住みたいな」くらいに僕は思ってましたけど、妻はゆかりもないですから。いきなり引っ越しますっていう話にはならないですよね、普通に仕事してたら。でもコロナ禍でちょうど妻もリモートワークになったタイミングだったので、いろいろ都合が良かったんです。それに僕自身もわりと自然が多いところで育ったので、子育てもそういう環境のほうがいいなという思いもあったし、いま佐渡に行ってもいいのかなって。

ー家が決まってからはすぐに移住されたのですか?
いや、結構経ってからでしたね。去年の夏に知り合いを10人くらい集めて大掃除大会をやって。そのあと無事に子どもが生まれて、ある程度落ち着いた状態になってから、今年3月に引っ越してきました。

ー佐渡での生活は2度目とはいえ、前に住んでいた場所とは別の集落ですよね。今の地域にもすんなり馴染めましたか?
引っ越してきてから近所に挨拶回りに行ったんですけど、集落に子どもが少ないせいか、僕らが赤ん坊を連れて「こんにちは」って行くと、それだけでみんなすごい喜んでくれるんですよ。そうすると野菜をくれたりして。「とにかく顔を見せに来てくれ」と言ってくれる地域の方もいますね。

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頂き物の野菜たち。
ーそんなふうにお子さんが地域の方からも愛されるのは嬉しいですね。
今いるところは、そうやって物をもらったりすることも多いですけど、でもそれに対して何かを返さなきゃいけないというのが、必ずしも発生しないんですよ。「若いもんが来たから、じゃあこれをあげよう」みたいな感じの方が多くて。

ただ、僕もそういうふうに良くしてもらっているぶん、コミュニティの中で自分のやるべきことをやらないといけないなと思ってます。たとえば、地域のゴミ捨て場の掃除があったら率先してやる、とか。そういう気持ちはありますけど、コロナだからか今のところ地域活動はほぼなくて。いつもゴミ捨て場もきれいだし、整ってる集落なので実際あんまりやることはないんですけど……。

ーでも、自分がもらったぶん、地域やその相手に還元するというのは、最初の移住でも佐藤さんが実践されてきたことですよね。そういうことが地域の中でより良い関係を築くために大切なのだと改めて実感します。今年再び佐渡に戻ってきて、7年前の印象と変わったところはありますか?
特に前と変わらないですけど、でも本当に佐渡での生活はファンタジーみたいだなと思っていて。東京で決まった時間に働いて、満員電車に乗って、というサイクルのなかにいると想像するのは難しいかもしれないですが、平日からパーティー……というか「ちょっと焚き火するんだけど」とか「山菜がいっぱい採れてるから食べようよ」なんて誘いがよくあるんですよね。

僕も会社員をしてたときは、毎日当然のように満員電車に乗ってましたが、佐渡ではそうじゃない生活が普通に成り立っていることに最初は驚きましたし。だからやっぱりすごく魅力的な生活だなって、ずっと思ってますね。

ーたしかに、私自身もそうですが、仕事が生活の中心になりがちというか。日々の暮らしを楽しむ余裕みたいなものは、意識していないと作りにくいなと感じます。
地域にもよりますが、佐渡では生活そのものにコストがあまりかからないんですよね。家賃も全然かかってないし、お米や野菜も自分たちで育てたり、近所の方からいただくことも多いし。かかるのはガソリン代くらい。だから、必要以上に働かなくていいというのはあると思いますね。実際、島で出会う人はみんな楽しく暮らしているし、仕事以外で自由に好きなことができているっていうことだと思います。

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佐渡は魚も安い。100円で売られていたワラサ、頂き物のキュウリとミョウガを添えて。

むしろ佐渡にいたほうが強みになる

ーそういう暮らしのなかで、佐藤さん自身の日々の過ごし方も変わりましたか?
神奈川にいるときと仕事量は変わらないので、暇な時間がめちゃくちゃ増えたというわけではないですね。でも、佐渡だといろいろな日々のイベントがあるんですよ。イベントっていうのは、季節の山菜が採れるとか、草刈りをしないといけないとか、なんとか祭りがある、とか。季節によって見たいものや、すごく小さな地域のイベントが日々あって。なので逆に忙しいです(笑)。
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佐渡の伝統行事「宵乃舞」
ーそういった佐渡の生活や環境が創作面にも影響していると感じますか?
それは圧倒的にありますね。この前は地域の能を見に行ったのですが、マイクを通さない和楽器の音がすごくきれいで。これが自分の作品になったらどういうふうに入るかな、とかも考えましたし。ほかにも日々鳥の声が変わるとか、季節によって周りの自然もどんどん変わるし。特にこれからの時期は、ほんといろんなことがあるんですよ。家に野菜がたくさん集まってきたりとか(笑)。

ー(笑)。夏野菜の時期ですね。
あとは、これから果物も美味しくなるので楽しみですし。そういう日々の小さいイベントは、創作において大切だと思ってます。家の中でずっとピアノを弾いてても、良い曲ができるかどうかわからないですから。だから佐渡で楽しく生活しながら、深夜にピアノをポロンポロンと弾いて曲を作る。そういうストレスフリーな生活ができています。

ーでも7年前は「音楽で何かを成し遂げたい」という思いで、ある意味、音楽の仕事のために関東に戻られたわけですよね。現在も東京であらゆる音楽制作を手掛けるなかで、いま再び佐渡に戻って活動しようと思えたのは、なぜだったのでしょうか。
たぶん結婚して子どもができたからだと思うのですが、「有名な仕事を取りに行きたい」みたいなモチベーションはそんなになくなってきていて。むしろ今は、自分がやりたいことで成立したい。仕事をしてると、やりたくないこともある程度はやらないといけないじゃないですか。でもそういう仕事は、出来上がったものも自分が誇れる作品ではないことが多いし、つまりそれはお金のために曲を作るモチベーションを上げてるわけですから。それって僕の場合は満員電車に乗ってるのと変わらないと思ったんですね。

ーなるほど。
まず自分の作風ありきで、僕の音楽が必要とされる状況でオーダーを受けるために、今は自分自身のブランド力を上げていかないといけない。そうすると、神奈川にいるよりも佐渡にいたほうが、その近道になるんじゃないかと。実際に佐渡の環境から受け取るものも多いし、家にグランドピアノを置いたり、自宅の作業場も充実させることができましたから。ライブや制作に関しても、ピンポイントで必要なときに東京へ行けばいいので、移住がマイナスにはならないし、むしろ強みになると思ったんです。

ーたしかに先ほどのお話にもありましたが、関東よりも生活コストがかからないぶん、そういった取捨選択のしやすさもあるかもしれません。
そうだと思います。そうやって作りたいものしか作っていない状態にすることによって、自分のことを支持してくれているファンや業界に対して、さらに純度の高い作品が提示できると思うので。長い目で見ると、そっちのほうが良いのかなって。

ー音楽や人生に対する今の佐藤さんのモードと、いろんなタイミングがうまく重なったからこそ、選択できた移住だったのですね。本当に作りたい音楽に向き合うという点では、ソロプロジェクト「plantar」としての作品づくりも進められていると伺いました。
そうですね。それもいろいろ早くやらないといけないんですけど……(笑)。

ー佐渡に来てから制作を始められたのですか?
いや、もうずっと前から作ってるんですけど、一回全部やめたんです。コロナ禍になって佐渡に来たら全然心境が変わっちゃったので、全部作り直してますね。

ーそしたら佐渡で受けた刺激が詰まった作品になりそうですね。楽しみにしてます。
ありがとうございます。

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「コミュニケーションが得意なほうではない」と言いつつも、自然と地域に溶け込む佐藤さんの島暮らしは、本当に豊かだ。特別なことはしなくとも、何気ない日々の暮らしが刺激に満ちている。

その刺激が豊かな作品を生み出すのはもちろん、他にはない独自の環境に身を置くこと自体が、より強烈な個性にもなっていく。だからこそ佐藤さんは、「佐渡にいることが自分の強みになる」ということを最後に語ってくれた。

選択肢は東京だけじゃない。そう強く感じる取材だった。

Nozomu Sato 公式サイト
Twitter @nozomu_sato

写真提供:Nozomu Sato
取材・文:Miho Aizaki

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