今年は、いつもの紅葉の山ではない。枯れっ枯れのぎりぎりまで、秋の木の葉が落ちずに樹々にとどまった。赤や黄の色はとっくになくなって、ぎりぎりの色、何色と呼べばいいのか分からない際どい色だけが残っている。山一面、萌え立っている、見たことのない絶景が現れた。色が完全に消えてなくなってしまうわずか手前の渋い渋いおしまいの色、あの世に移り変わる直前の色の精が最期の力で萌えている。100億粒くらい、目にも顔にも胸にも躰いっぱいに色を浴びた。色を浴びる幸せ、というものがある。色数は多くなくていい。たった数色、たった1色だけと思えるくらい限られた色がいいのかもしれない。広々とした1色の宇宙に、ただ1点、自分を浮かばせて。極楽というのは、ああいう色の世界かもしれない。
「とにかく、たっぷり、おっきなおっきな水に浸かるのがいいのよ」、数年前、ある人に教えてもらってから、温泉に入ったり巨大な海に潜る度にこの言葉を思い出している。確かにおおきな水にとっぽんと浸かって包まれるだけで、いいのだ。じゅんっと古い記憶が躰に流れ込んでくるような、ゆがんでしまった心身が、元々のあるべき姿に、元々のあるべき眼差しに、素直に呼び戻されて治る。
たっぷりの水のような、ひとつの色のような、そんな音楽が好きになってきた。あまりあちこちに忙しいよりも、じっくりと少しのことに集中するほうが、その中の世界が広大で、どこまでも発見があって飽きない。相変わらず、家の窓を開け放って、外からやってくる鳥や虫や風の音を聴きながらピアノを演奏している。深く考えずにありのままでいられる日は、自分が演奏しているのはピアノなのか、鳥なのか、風なのか分からなくなる。ここで鳴いてほしいというタイミングで鳥は鳴いてくれるし、演奏が盛り上がってきたら風も勢いを増す。僕が彼らに合わせているのか、彼らが合わせてくれているのか、どちらでもいいのだけれど、一緒に季節を描くような、そういうことが起こるというだけで、いいなあ、と思う。
ここ数か月、中国の映画音楽に取り掛かっている。はじめての外国映画の仕事で、戸惑うことも多い。そのひとつに、まだ翻訳が付いていないので、登場人物たちが何を喋っているのか大体しか分からない。こういうことを話しているのだろうなと予想はできるし、翻訳が届くのを待っていればいいのだけれど、せっかくなので彼らの喋り声を、鳥が歌っているのを聴くように楽しむことにした。よく聴き続けていると、意味とは違う別の、もっと大事な何かが伝わって分かるような気がしてきた。意味ではなくて、もうちょっと、色、のような、色で例えたくなるような人の心があって、そんな色に合わせて、どんな音が合うだろうか、手を動かしてみる。音色というけれど、音にも色があるのだから、色と色が混じり合って、映画がほんのりと色に包まれる。そんな風に仕事が進んでいるのはとてもおもしろい。