これは岡本太郎独特の、EXPO70への辛辣な批評だった。「人類の進歩と調和」が万博の統一テーマだったが、「人類は進歩も調和もしていない」というのが彼の叫びだった。「現代人にラスコー洞窟の壁画や縄文土器のような躍動感あふれるものがつくれるか? 調和どころか、足の引っ張り合いばかりしているじゃないか」と。
一方、岡本太郎は太陽の塔の内部にもうひとつの塔をつくっていた。「生命の樹」である。生命の樹には、38億年の生命進化の流れが貼り付けられていた。岡本太郎は現代に対するアンチテーゼを主張する一方で、悠久の生命の時間を考えていたのだ。
EXPO2025のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」である。新型コロナウイルスのパンデミックを経験した今、どのように“いのち”と向かい合うべきか、そして岡本太郎の叫びとどのように向かい合うべきか、それが問われていると感じている。
“いのち”は「輝くもの」である。特に、私たち人間にとって個体の生命には唯一無二の価値があり、しばしばそれは「地球よりも重い」と表現されることもある。ヒトはヒトを殺してはならない。殺人は最大限の重罪となる。しかし、ひるがえって生命全体を眺めてみると、個体の生命の尊重は必ずしも自明の原理とはいえない様相がある。だから私たちはなおさら、“いのち”は輝くものであることの意味を、つまり生命哲学の起点を見定めておかねばならない。
ヒト以外の多くの生命体にとっては、個体の“いのち”よりも、種の保存のほうが重要である。魚も鳥も昆虫も、植物でも微生物でも、種の保存が生命にとって唯一の至上命令になっている。この目的のために、個体の“いのち”はいわばツールでしかない。個体は次の世代をつくり出すための道具なのだ。何千個、何万個もの卵が産み出され、そこから幼生や幼虫が現れる。しかし、その大半は他の生物に食われたり、のたれ死にしてしまう。わずかな個体だけがなんとか生き延びて、パートナーと出合い、次世代をつくることに成功する。こうして生命はなんとかバトンをつないできた。自然のおきては残酷で冷徹なのである。
ところが、私たちヒトはどうだろうか。ヒトは、一人ひとりの人間、つまり個体の生命に最重要の価値を置く。同時にほかの人間の生命を尊重する。ヒト以外の生物であれば、種の保存に役に立たない個体、生産性のない個体に用はないことになってしまうが、人間はそう考えない。人間は、種の存続よりも、個の生命を尊重することに価値を見出した初めての生物種なのである。別に種の保存のために貢献しなくてもいい。産んだり、増やしたりしなくても罪も罰もない。それは個の自由なのだ。そう約束し合うことができた、初めての生物種なのだ。これが基本的人権の起源である。LGBTQも、障害者も、個の生命は等しく尊重される。私たちが自在に将来を選ぶことができるのも、この約束のおかげである。結婚してもいいし、しなくてもいい。子どもを持っても、持たなくてもいい。どんな職業について、どんな風に生きてもいい。
なぜ、人間だけが、このような境地に達することができたのだろうか。それは進化の過程で、人間だけがすばらしいものを発明することができたからだ。言葉である。ギリシャ哲学でいうところの「ロゴス」である。「言葉=ロゴス」は、コミュニケーションの道具であるとともに、人間を自然の掟から自由にする道具でもあった。言葉はものごとに名前をつけ、世界の仕組みを解き明かす強力な作用がある。言葉のおかげで、種の保存という遺伝子の命令の存在を知った。同時に、その命令を相対化することができ、そこから個の生命の自由を勝ち取ることができた。これがポストコロナの生命哲学の起点である。
だからこそ、私たちは言葉による約束を大切にしなければならない。一方で大事なことは、言葉を過信しすぎないことである。言葉は私たちを自由にしてくれた。しかし、言葉は私たちを縛るものでもある。あらゆる自然の掟をすべて言葉の力で制御することもできない。自然の掟は、ギリシャ哲学のいうところの「ピュシス」である。私たち人間は、地球生命系の一員であると同時に、言葉を持った特殊な生物なのである。ピュシスとロゴスの相克をどう生きるべきなのか、次号以降も論考を続けたいと思う。
待望の新刊!『生命海流 GALAPAGOS』
本体2090円(税込)
文・福岡伸一