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多様性

連載 | ゲイの僕にも、星はキレイで肉はウマイ

人の覚悟に「似合わない」は、似合わない。

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先日電車に乗っていた時、女性装をされた男性が少し離れた席に座った。ご本人の性自認が女性なのか、男性なのか、そのどちらでもないのかが分からないため“男性”と呼ぶのはいささか乱暴な決めつけとなるが、生まれもった性は男性であると分かる容姿だった。彼女は視線を窓の外にやることもなく、伏し目がちで、とてもおとなしそうに見えた。

お盆で大阪に帰省したある日の夕方だった。気の抜けた空気が充満する車内には西日が差し込み、人は少ない。僕は手すりにだらしなく掴まりながら、職業柄というか、ボンヤリと彼女を見てしまう。胸元にリボンをあしらった薄手の白いブラウスの上に、シンプルなブラウンのカーディガン。化粧に派手さはなく、メガネをかけて髪は1つくくり。清潔感のある、落ち着いた出で立ちだった。

見てはしまったが、友人にLGBT当事者がたくさんいる僕にとっては何ら珍しくない。ただボンヤリと見つめた後、意図もなく視線をはずしたが、隣の50代くらいの女性二人はそうもいかなかったらしい。「うわ、“こっち”の人かな」。こそこそと悪口を言い始める。この時代によくやるなぁ、と思ったが、まあ実情はこんなもんかとも思った。

のんびりしていた僕の耳に、のある言葉がガラガラと流れこんでくる。「いくつくらいの人やろねぇ」「仕事とかしてはるんやろか」「家族とかどう言うてはるんやろねぇ」。ひととおり大きなお世話が続いたあと、この一言が聞こえてきてムッとした。

 「似合ってないのにねぇ」

似合ってないかぁ。たしかに、僕も誰かの服装を「似合ってない」と感じることがある。自分もたいしてオシャレじゃないという事実はすっかり棚に上げ、気楽な気持ちで粗いファッション評を飲み会で披露してしまったりする。実にダサい。おばちゃんたちも形容しがたい渋い色をした、ゆるいズボンをはいていたから、棚上げ一派の一味と言っていいだろう。

でも、そんなバカで適当な僕らも、彼女に対して「似合っていない」と言うことはあまりにセンスがないと知っておかねばならない。それこそ、その発言は似合っていないのだ。彼女にとって服はきっと、ファッションであるだけでなく、「覚悟」でもあるからだ。

人の覚悟を笑うようになったら、僕らはきっと終わりだろう。果たして、おばちゃんたちはこれまでの人生で何を覚悟してきたのか知らないが、僕なら、滑り止めをけって挑んだ浪人生活や、初めてのカミングアウトがそれにあたる。そのどれか一つにでも「君には似合ってないよ」と言われれば「うるせーよ!」と返す。覚悟する度に、僕らはたった一人しかいない「自分」の輪郭をつかむのだ。だから彼女の「覚悟の服」に、僕らは「やるじゃん! いいね!」以上言うことはないはずだ。

そしてそもそも、オシャレの素晴らしさは、オシャレすること自体に詰まっているんだから、そんなこと言うなよ、とも思う。

ずっと着てみたかった服に袖を通す瞬間、新しいお化粧を取り入れてみる朝、僕らは「これを身につけていけば、素敵だねって言われるかもしれない」。そんなことを鏡の前で考える。その胸の高鳴りが、オシャレの素晴らしさのほとんどだと僕は思う。そんな、最高にキュートでかけがえのない瞬間を、彼女もおばちゃんたちも僕も過ごしているのだ。オシャレは自分なりにやってみた時点で、みんな最高でスペシャルに決まっている。

そんなことを考えていると、彼女は僕とおばちゃんたちなんて気にとめることもなく、先に降りていった。おばちゃんたちは話題を変え、何事もなかったかのように違う話で盛り上がる。僕は勝手に「自分ももっとオシャレをしよう」と思い直しながら、おばちゃんたちのよく分からないズボンがオシャレに見えてきていた。

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