先月、早稲田大学で行われた「私たちのホモネタ論」というテーマのトークセッションに呼んでいただいた。いまだなくなることのない、「おまえらホモかよ!」というような、ゲイ(やLGBTs)を侮蔑的に扱った「ホモネタ」について議論するセッションだ。「テレビでゲイの当事者のコメディアンが『ホモネタ』を披露していた場合」や「飲み会で仲良さそうにしている男性二人をいじる場合」などの例を取り上げつつ、何が問題と思うか、どうすれば不必要な心の傷は減らせるかなどについて話した。
「ホモネタ」はヒヤリと冷えた刃の薄いナイフのようだといつも思う。薄いハートしか持ち合わせていなかった幼き頃、何度もそれに背筋が凍るような思いにさせられ、傷つけられてきた。「ホモネタ」がはらむ問題は多面的だが、僕の場合、そこで起きる笑いが「まさかこの場には“ホモ”はいない」という空気を前提としていることに、存在の中心から否定されているような気持ちになり、苦しめられたのを思い出す。今はハートも分厚くなり、自分と無縁の人間からの心ない「ホモネタ」など痛くも痒くもなくなったため、個人的にはあまり関心の対象ではなくなってしまっているが、この暴力性に満ちた笑いの一つの「型」は、なくしていくべき負の遺産だと思っている。
ただ、一方で笑いの「型」は抑制することがとても難しいと思っていて、それは「笑い」が気持ちのいいものだからだ。オネエ・コンテンツがこれだけテレビでもてはやされている影響もあり、「ホモネタ」という一つの笑いの「型」がどういったものなのか、生活者の頭の中にインプットされ続ける以上は、これからも「ホモネタ」を起点として「笑ってしまう」という状況は生まれてしまうと思うのだ。
そう、「笑い」というのは「笑おう」とするものではなく、「笑ってしまう」ものだから厄介なのだ。社会で共有されてしまった笑いの「型」が強固なものであればあるほど、その「型」に沿って「笑ってしまう」という状況は簡単に消すことができない。「ホモネタ」で「笑ってしまった」ことに対して、「そういうの笑わないほうがいいですよ」と伝えることは対症療法にしかならないと僕自身は思っている。
だからどれだけ「ホモネタ」の「型」に取って代わる新たな「型」を提示していけるかが大事なのだと思う。それがどんなものなのか、「ホモネタ」がまだ強固な現代において、すぐには思いつかないが、僕が編集長を務めている「やる気あり美」は、そういったものを探り続けるためにやっていると言っても過言ではない。
ヒントは「ホモ=笑われる側」を前提とした「ホモネタ」ではなく、「ゲイ=笑わせ、楽しませる側」を前提とした「ゲイネタ」をどう生産できるかなのかなと思ったりする。その意味でやはりマツコ・デラックスさんの生み出す笑いは「オネエ」の笑いの域を優に超えており、すごいとしか言いようがない。
マツコさんは『SWITCH』2016年5月号(スイッチ・パブリッシング刊)にて「あたしって、次の何か大きな潮流だったり、みんなが目指す何かが見つかるまでの繋ぎだと自分で思っている。あたしは所詮すべての繋ぎなのよ」と語っており、僕はもう、神々しささえ感じる。「オネエ」という「ホモネタ」が大好物の職業に身を置きながら、「オネエ」と定義するだけでは不十分すぎる彼の活躍は、静かに、そして確かに新たな笑いの“型”の構築に寄与していると思う。
きっと「ホモネタ」という愚鈍な笑いはなくなって「あんなのダサいよね。なんだったの?」と言われる時代はすぐそこまできているはずだ。対岸のないままにマツコさんがつくり上げてきた橋を、僕も支えられる人になっていきたい。