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多様性

連載 | テクノロジーは、人間をどこへつれていくのか

機械翻訳と語学

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 学校では勉強すべきことのカリキュラムが組まれ、通過しなければ卒業も進学もできない。教育上必要だと判断され、義務的にすべきだと位置づけられた勉強。
 「数学は将来何の役に立つのか」と、興味が湧かない科目はいちゃもんをつけられることもあれば、与えられた課題を黙々とこなす子どももいる。気が進まなかったはずの科目のおもしろさに気づいたり、思わぬ形で将来役立つこともある。食わず嫌いにならず、数多の分野について基礎学習という儀式を経ることの意義はあるものだ。
 自然言語処理は長いこと研究されていたが、機械翻訳の精度は低く、翻訳結果が笑いのネタにされていた。言葉は例外的な使われ方がつきものだし、世界には7000以上もの言語がある。主要な日英翻訳ですらままならないのだから、自分で語学の勉強をするしかない。英語学習は典型的なカリキュラムのひとつとして君臨してきた。
 ところがいつの間にか、修正をしなくても済むほどの自然な文章に翻訳されることが多くなった。ニューラルネットワークの深層学習が応用され、翻訳アルゴリズムの研究開発が進んでいる。人工知能を活用した機械翻訳技術が進歩することで、テクノロジーは言葉の壁を越えようとしている。
 機械翻訳が一人前になったとき、外国語の勉強は必要でなくなるのではないかという疑問が湧いてくる。少なくとも日英の翻訳レベルは相当高くなるはずなので、中学・高校で英語の勉強に1000時間程度費やされるような日本のカリキュラムについて、違和感を覚えることになるだろう。機械翻訳ができることに1000時間も投じるべきなのだろうか。個性を伸ばすための勉強に、貴重な時間をシフトしたほうがよいのではないだろうか。
 英語教育のスタートを小学校へ前倒しし、暗記やテクニック偏重の入学試験を改革するなど、教育方針の見直しはされている。しかし、そもそも論になると、「英語なんて機械翻訳に任せればよいでしょう」と決断できる大人はなかなかいない。訪日外国人が増加し、外国人就労者への自治体の窓口業務、災害現場や病院など、コミュニケーションがままならないと困ってしまう場も増えた。日本語を勉強している人だけが日本を訪れるわけではないから、多言語に対応できる機械翻訳は救世主となる。
 車を使うことで徒歩よりも早く遠くへ移動できたり、洗濯機を使うことで手洗いよりも効率的に洗濯ができるように、機械翻訳は余剰時間を創出し、新しいことに没頭する機会を提供してくれる。解釈を前向きにすることで、機械翻訳に委ねることへの抵抗感は和らぐかもしれない。
 いや、和らげるよりも前に気づかねばならないことがある。機械翻訳の進化が何かを問いかけている。「勉強すべきことは何か」についてあれこれ考えるべきタイミングが訪れているのだ。
 機械翻訳は、言語が異なる人同士のコミュニケーションを支える道具として有用である。しかし、機械翻訳が人間のように文章を理解せず、何らかのアルゴリズムに基づいて、ある言語をほかの言語に置き換えているかぎり、一冊の本のような長文を的確に翻訳することは困難である。小説などは、言葉を巧みに操って人間の複雑な心理を表現するし、表現に個性がある。
 僕は、わかりにくい文章の行間や文脈を読み取ることや、暗喩のような修辞技法が好きなのだが、人工知能がそれを理解し、翻訳までしてしまうことは難しい。人間自体が、文章を理解するとはどういうことなのかを理解しきれていないし、人工知能ならば簡単に理解できるというものでもない。
 機械翻訳は賢くなり、頼れる場面は多くなる。それに伴い、語学の時間を削ることは可能だろう。だとすれば、言語の背景にある国々の文化の理解や、語学力よりも読解力や思考力を磨きたい。遠回しだけど機械的ではない表現や長文の文脈に含まれた人間の温かさを理解したときに喜べることは、愛おしい感性であり、営みである。
 1000時間丸ごと英語学習の時間を削れたとしたら、浮いた時間をあなたはどのように使いますか?

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