現在、東京・恵比寿の『恵比寿三越』で、私が監修した「フェルメール『音楽と指紋の謎』展」を開催中である。そこで今回はちょっと連載の趣向を変えて、この展覧会に至った経緯を開陳してみたい。
いまから数年前のある天気のよい日、ニューヨークのフリック・コレクション美術館の廊下でフェルメールの「稽古の中断」を見ていた私は、はっと息を呑んだ。フリック・コレクションは私が初めてフェルメールのオリジナル作品と出合った場所である。それは、1980年代の終わり、研究修業をしていた頃だから、もう30年も前のことだ。それ以来、何度もここへ足を運んだが、幾度見てもフェルメールの絵にはその度に新しい発見がある。以前は気にも留めていなかった部分が急に目に飛び込んでくるのだ。まるでルーレットの玉が止まるみたいに。
この絵は、題名のとおり、男性の先生について音楽の稽古をしていた女性が、ふと手を休め、こちらに意味ありげな視線を送った、その一瞬を捉えた室内画である。私の目に留まったのは、彼女が手にしている楽譜だった。近づいて見てみると、なにやら細かいオタマジャクシのような音符が描かれているではないか。フリック・コレクションは大人の美術館で、10歳未満の子どもの入場を認めていない。その代わり絵にはガラスも掛かっていないし、実にさりげなく壁に掛かっているので来館者は至近距離で絵を鑑賞することができるのだ。
ひょっとしたら、この音符は、ほんとうの楽譜どおりに写しとられているのではないか。なぜならフェルメールはあらゆることを公平に、ありのままに記述することをめざしていたから。彼は芸術家というよりも科学者だったから。もしそうであるなら、フェルメール自身がそうだったように、顕微鏡的なマインドをもってこの楽譜を拡大し、その音符を解析すれば、聞こえないはずのフェルメールの音楽を聴くことができるのではないか。
17世紀のオランダが生んだ天才画家ヨハネス・フェルメール。わたしたちはなぜフェルメールの絵画にこれほどまでに心ひかれるのだろう。その秘密はまず絵のサイズにあると思う。初めてフェルメールを見たとき、本物のフェルメールのその小ささに驚かされた。次いで、絵の静謐さと透明さに打たれた。そこにはまったく画家のエゴが感じられない。「これが私の解釈した世界だ」という画家の主張がどこにもない。それでいてフェルメールの絵の中には不思議な光の粒だちと哲学的な奥行きがある。つまり無限の小宇宙が広がっている。わたしたちは、たとえば盆栽や枯山水、あるいは坪庭といった小さく晴明な空間に、固有の世界観が凝集されている場所に美を感じる。フェルメールの小宇宙にもそれに通じる好ましさがある。
さらにフェルメールの絵の中には、科学者のマインドに似た正確さ、公平さ、細部へのこだわりを見て取ることができる。事実、フェルメールは、カメラ・オブスキュラというレンズつきの針穴写真機を使って、三次元空間を二次元のキャンバスに写し取ろうと実験を繰り返していたといわれている。そして、光の科学やレンズ装置をフェルメールにもたらしたのは同時代、同じ街・デルフトに住んでいた“顕微鏡の父”アントニ・レーウェンフックであったと推定されている。
思えば、生物学者の私がフェルメールの名を最初に知ったのも、昆虫に夢中だった少年の頃、顕微鏡の歴史をたどってレーウェンフックのことを自分で調べてみたときのこと。顕微鏡を覗くと、そこにもひとつの小宇宙が広がっていることがわかる。17世紀、科学と芸術はきわめて親しい場所にあった。
フェルメール好きが昂じて、全37点のリ・クリエイト作品を作り上げた。リ・クリエイトとは、デジタル技術によって原色・原寸大にフェルメールの絵画を完全再現し、それを特殊プリンターで、フェルメールが使ったのとほぼ同じ麻のキャンバス上に写し出したものである。これは単なる複製画ではない。約360年前、フェルメールが描いた、その時点の色彩の鮮やかさや、みずみずしい筆遣いを正確かつビビッドに再創造した新しい芸術作品だ。ホンモノ以上にホンモノに近い絵画の再現といってもよい。37作品を一挙に並べてみるとそれは壮観だった。門外不出のフェルメール、盗難されて行方不明のフェルメール、個人所蔵でなかなか見ることが叶わぬフェルメール、そのすべてが結集した。そこにはフェルメールの全人生が立ち上がって見えた。フェルメールはすばらしい。それは、フェルメールの絵画そのものがすばらしいというよりも、むしろフェルメールの中に美を感じる私の心の中で起こっている現象である。だから、フェルメールを時間軸の中で一覧するリ・クリエイト・フェルメールとは芸術の新しい鑑賞法でもある。
リ・クリエイトによってフェルメール絵画の細部の解像度を高めると、さらに驚くべき発見があった。そこには隠された次元が存在していたのだ。フェルメールが絵の中に描き残していた音楽の音色、そして指紋の秘密である。さあ、汲めども尽きぬフェルメールの世界の謎へ、あなたを誘おう。思う存分、フェルメールの小宇宙を楽しんでいただきたい。
(つづく)
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