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国家権力・巨大企業との闘いの姿

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『正義の行方』

1992年2月、福岡県飯塚市で登校中の小学一年生の女子2名が行方不明になり、翌日自宅から30キロメートル離れた山林で遺体で見つかった。その後の目撃情報から、警察は久間三千年を容疑者として捜査を進め、94年9月、死体遺棄・殺人・誘拐容疑で彼を逮捕した。

被告は起訴事実を全面否認し、弁護側は当時、まだ導入段階でその精度が担保されていなかったDNA鑑定結果は信用できない、と無罪を主張。だが、地裁、高裁、最高裁はいずれも原告の訴えを棄却し、死刑判決から2年1か月という異例の早さで、2008年10月28日、被告の死刑は執行された。

飯塚事件といっても、地元の人以外、その概要を知る人はほぼいないだろう。だが、死刑執行後、冤罪を訴える弁護団が再審請求を申し立て、裁判が継続しているように、事件は今も終わっていない。捜査、報道、司法の判断において、さまざまな懸念の残るこの事件を、先入観を排したフェアな視点で描き、司法の課題を浮き彫りにするのが、木寺一孝監督の『正義の行方』だ。

弁護士、元・警察官、新聞記者。立場が異なる三者の視点で事件をトレースする構成は、最後まで緊張感を崩さない。監督を前に三者が語った、あるいは口を衝いて出たことば、その表情に、彼らが何に重きを置いていたかが垣間見える。真実とは、正義とは何なのか。映画は観客に自問自答を促す。

状況証拠の積み重ねだけで被告を死刑台へと送り込んだ警察。警察の情報源を頼りに事件報道した新聞記者。死刑が執行され、被告はすでにこの世にいないなか、それでも日本の司法は変わらなければいけないからと、異例の再審請求を行なう弁護団。

捜査や報道はどうあるべきか。国家権力にとって、個人の存在はどれほどのものなのか。映画を観て、それぞれの目でぜひ確かめてほしい。

『美と殺戮のすべて』

メトロポリタン美術館の展示空間で、一斉に投げ放たれる薬品ボトル。アーティストのイベント? そう思わせる(実際そうともいえる)インパクトある映像で始まるローラ・ポイトラス監督の『美と殺戮のすべて』は、写真家のナン・ゴールディンとその仲間による、全米に「オピオイド」危機をもたらしたサックラー家との闘いの記録だ。

サックラー家率いる製薬会社『パーデュー・ファーマ』が、その常習性を偽って販促した結果、市場を席巻したオピオイド系鎮痛薬「オキシコンチン」。この薬の過剰摂取や依存症によって、全米では、過去20年間に50万人が中毒死しているという。

美術館、大学など文化施設への大々的な寄付を行う慈善家としての顔を持つ裏で、個々の痛みからの搾取を衒いなく続けてきたサックラー家。巨大企業との闘いは容易なことではないものの、一家の責任を追究するために立ち上げた団体『P.A.I.N.』を通じて、彼女は戦略的に活動を展開する。

社会問題と同時に彼女のこれまでの歩みを伝える作品には、ナン・ゴールディンのナン・ゴールディンたる所以が随所にちりばめられている。

text by Kyoko Tsukada

記事は雑誌ソトコト2024年5月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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