写真だからこそ、伝えられることがある。それぞれの写真家にとって、大切に撮り続けている日本のとある地域を、写真と文章で紹介していく連載です。
新幹線でも東名高速道路でも、「まだ静岡だ」とか、「通り抜けるのにとても時間がかかる」など、その先に向かって急いでいる人たちのほとんどの人がそうコメントする。その次に多いコメントが「静岡の人はなんかおおらかだよね」、つまりのんびりしているということなんだろう。のんびりした県民性にさらに広い土地とあって、さすがに関東と近畿を遠く隔てる中部地方内での存在感は強い。その広い静岡県の西部にある浜松市で僕は生まれ育った。
浜松は戦前、繊維のまちとして栄えたらしい。「ガチャマン」という言葉があったように、織り機をガチャンと織れば万の金が儲かるというくらい盛んだった。実家の周りは家内工業で糸巻き屋や、糸染め屋など、生地になるまでのそれぞれのパーツを分担してつくる家が集まっていた。
戦争が始まると織り機のモーターなどをつくる会社が車や船や飛行機などのエンジンをつくることに切り替えた。トヨタ、ホンダ、ヤマハ、スズキ、と多くのメーカーは浜松から始まった。浜松の経済が下降を始めたのはその頃からと言われる。
僕の祖父は戦争が終わる頃、兵庫県神戸市から浜松に引っ越してきた。そして『ヤマハピアノ』の工場で働いた。ピアノの脚を加工する仕事だったらしい。定年後は自宅の近くに土地を借りて家庭菜園を始めた。開拓時代の北海道で生まれた祖父は、木の根や石の塊を掘り出すために子どもの頃から鍬を握っていたかもしれなかったが、70歳前になって始めた野菜づくりはほとんど素人で、誰にも教わらず本を読んでは試行錯誤して野菜をつくっていた。周りの農家は当時の農協の指導のもと、出荷できるクオリティの野菜をつくっていたが、祖父は人から指導を受けることをひどく苦手とするようだったこともあって、ずっとひとりで野菜を育てていた。僕はその野菜を食べて育ってきた。おやつに食べる茹でたてのとうもろこしやふかしたての芋を最高においしいと感じられた時もあるが、目の前に山盛りに積み上げられたそれらを見て、今後何日も毎度の食卓に現れるであろうことを想像すると、初日でもううんざりだった。
その畑は子どもの頃の僕にとっては遊び場でもあった。モグラの穴を発見したら煙幕が出る花火を投げ込み、畑の至る所から立ちのぼる煙を見ては驚いた。抜いた雑草を野焼きしているところにつくり損なったガンプラを投げ込んで溶けていくさまを見ながら、実際、戦闘に遭ったらこのくらい破損するだろうかと想像したりした。
祖父は94歳まで生きたが、その数年前、足腰が弱くなってから畑でつくる作物の量は減っていった。葬式の日は夏場で、帰りに際に見た畑は雑草に覆われ、もはや畑の様相はなくなっていた。その後何度か草刈りを父がしたようだが、誰も畑を継いで何か育てようとは思わなかった。
その翌年、初の映画を撮らせてもらう機会を得た。『星影のワルツ』というタイトルで祖父に対するオマージュの映画だ。漫才師の喜味こいし師匠に祖父役をお願いした。撮影場所はまさに祖父の生きた家と畑とその周辺。畑での作業シーンが僕にとってとても重要な意味を持っていたので、スタッフに頼んでその畑を耕し直してもらい、苗木も植えてもらい、当時の畑を再現してもらった。東京から来てくれた製作チームはロケハンやキャスティングなどの間に畑作業を毎日のように続けてくれた。1か月の間、1度も東京に帰らなかったスタッフもいた。毎日だれがいつ水を上げたかお互いに確認し合い、映画作りというよりは畑づくりに来ているようだった。
製作から撮影、公開までを一部始終見ていた僕の両親は、そのスタッフたちの熱意によって蘇った畑を継ぐことを決心したようだった。祖父が生きていた頃はまったく土に触らなかったような両親がその後20年近く、そして今でも毎日のように畑に出かける。草取りや力仕事はもっぱら父の役割で、種蒔きや収穫は母がやる。
その両親ももう80歳代になる。東京でのほほんとスーパーで野菜を買う都会生活をしている僕は、実家に帰っても畑作業を手伝うこともなく写真ばかり撮っている。この状態がいつまでも続くことではないことをひしひしと感じているにもかかわらず、のんびりした県民性がこんな時に出てしまうのは悪い癖だ。
この畑が以前、枯れ始めた雑草に覆われ、誰にも気にされず静かに夕陽を浴びていたのがとても美しかったのを僕は知っている。その美しさは郷愁のようなものかもしれない。しかし今ある畑は、決して美しく整備されているわけではないが、畑として生きている。そこはまるで実家の部屋の一つのように両親が気の向くままに手を入れ続けている土地だ。自分の両親の生活に美しさを見出すのはとても難しい。1枚で撮り切れるものではないと思うし、荒れた土地に見出す美しさとは違う別のなにかをそこに見ている。それがなんなのかはわからない、だから撮り続けている。